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昭和62年夏、下駄を履いてどこかへ行くことが「散歩」だと思った。

「おにいちゃん、どこ行ってたの?げたはいて」

当時、小学2年生だった兄が帰宅するなり、4才の私は訊いた。

「さんぽに行ってきたぁ」

「さんぽ!!」

思い立ったら、わき目もふらずに行動に移す私は、
「おかあさん、ともこちゃんもげた出して!さんぽしてくるから」と母にお願いし、下駄を履いて、外に出た。

母は、今でいう在宅ワークをしていたと思う。リサーチの電話の仕事をしている時期だったかもしれない。娘に言われるがままに下駄を出した。

その頃私は、市営住宅に住んでいた。
8棟の団地が大きな公園をぐるりと囲むように建っていて、公園に出れば、誰か彼か顔見知りがいたし、普段から一人で公園で遊ぶこともあったので、母は特に心配する様子もなかった。

後から聞けば、兄は、住宅の周りをぐるっと一周しただけだったらしいのだが、私は何も考えずに、団地の敷地を飛び出した。

下駄を履いて歩く自分が嬉しくて仕方なかったことを覚えている。
下駄は、団地のお祭りで浴衣を着るときにのみ履くものだったので、普段着のまま、カランコロン鳴らしながら外出するのは初めてで、なんとなく粋な気がした。

「これが、さんぽっていうんだ」
ぐふふと満面の笑みで歩いていたに違いない。

父に連れられて行っていた文房具屋や、母と通っていた福祉館などがある界隈まで歩き、信号もいくつか渡って、郵便局までたどり着く。おそらく、30分くらい、歩いていただろうと思う。

そこで私は、これ以上は行ったことがないから、と思ったのか、履きなれない下駄で足が疲れたからなのかは忘れたが、引き返した。


団地の集会所が見えたところで、
「あーーーーー知子ちゃん、いたーーーーー」という大きな声が聞こえた。

兄の同級生たちだった。
「知子ちゃん、帰ってきたわーーー」と声を掛け合っている。

「探したんだよ」「心配したんだよ」
と言われ、へぇ、さんぽしたら、そんなことになるのか、と不思議に思ったことを覚えている。

そのあとの記憶は、父が母を叱っている場面に移る。

立っている父が、椅子に座っている母に対して、長々と説教をしていて、うなだれている母の姿が焼き付いている。
そのとき、「危機感が足りない」と怒られたと、大きくなって母から聞いたような。

あのときの年齢の10回分を生き、そして、母親になった今、私も、母の危機感はちょっと足りなかったかも、と思う。
だけど、そこまで神経質にならなくても良かったあの時代や、母のズボラさに感謝もしている。あの冒険は、なかなか楽しかった。

そして、探してくれた兄の友人たちにも感謝である。
そういえば、誰が「知子がいない」と気づいて言い出してくれたんだろう。今度、実家の人間と会うときに訊いてみよう。覚えているだろうか。

あの経験が、きっと、今の私を地域活動に向かわせる1つの動機にもなっている。
「あれ?」という違和感は、普段から関わりがないと生まれないだろう。

誰かが見てくれている、気づいてくれる、という安心感のある地域で子どもたちを育てたい。
先日、夏祭りで下駄を履く子どもたちを見て、改めてそう感じたのだった。

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