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noteを書くのは、自分へのご褒美みたいなものだなぁ。

仕事をいくつか抱えてしまっている。

ひとつは動画制作で、広告動画、切り抜き動画、説明動画の3つを作り、
もうひとつは、営業サポートで、セミナーに申し込んだ企業の代表に電話をかけて、確認・案内をする、というもの。

いずれも同じ依頼主からの仕事だ。

やりたい・できる仕事であっても、もっとやりたい挑戦中のことがあったり、生活と両立できるか?間に合うか?いう不安がよぎったりするせいで、「抱えてしまっている」などという表現をしてしまうことに。

かまってちゃんな子どもたちと一緒に暮らしていなければ、もう少し時間的にも余裕があるだろうけど、今の私の目標は、なんとか午前中に集中して仕事をし、午後2時、3時に帰宅する子どもたちを出迎え、いっしょにおやつを食べて少しのんびりしてから、小学生男児らの学習のサポートと、末娘のあのねあのねを聞きながら、腹減った早く早くの声が激しくならないうちに夕飯準備に取り掛かる。

その日のタスクが済んでなければ、寝るまでの合間を見ながら仕事する、というペースを最近なんとか掴みかけている…?いや、掴めていないか、掴みたいところだ。

こちらの事情を伝えて、納期も少し余裕を持たせてもらっている。

しかし、困ったことに、午前中、簡単に集中が途切れてしまい、気を抜くとすぐにnoteに遊びに来てしまう。noteは開かないぞ、集中しよう!と思っても、つい開いてしまい、興味深い記事に出くわすと、勢いに任せてコメントまでしてしまう。

だから、その日、やるべきタスクが終わったら、ご褒美のように夜はnoteを書いて、入りびたったまま寝落ちするのが理想だし、幸せだ。
これこれ!この時間がないとね、という感じ。
(あ、嘘だ。今日はやるべきタスクが終わっていないのに、note書いちゃってる!ご褒美じゃなくなってる…)

noteを書くのは、日々のこまごまとした感情のアウトプットの要素が大きい。
感情の赴くままに日記のように書くこともあれば、いくらか蓄積してから何らかの気付きを書く日もある。

いずれにしても、アウトプットするために、自動的に内省時間が設けられるので、この時間も貴重だ。

そうなんだよな…noteを書こうと思えば、自分と向き合う時間になる。
それは自分をいたわる時間でもある。

起きた出来事に対する捉え方は、全て過去の経験とそれらへの感情と結び付いている。

noteで毎日、赤裸々に言語化していることで、自分の気持ちとその理由がわかりやすくなってきていて、昔より、くよくよしたり、落ち込んだりしなくなっている気がする。落ち込んでも立ち直りが早い。

「あぁ、あんな過去があるから、そう思うんだろうね」
「こう考えがちだから、そこで許せないってなるんだろうね」
みたいな。

自分を外側から眺めて言葉にすることに慣れたんだ。

note書き続けていたら、自分の取扱説明書ができてた、みたいな効果があるんじゃないか。

これを自分へのご褒美と言わずになんと言おうか。
しかも反応までいただいて、そこから思わぬ気付きを得ることもあるのだから。

と言いながら、今週の締め切りの仕事が1つ終わったら、note書くだけじゃなく、缶ビール1本くらい飲むだろう。
自分にご褒美与えすぎか。
まぁそれくらい、いいよね。

(似たような記事を1年前にも書いていたけど、俯瞰力は今の方が上がってる気がする…!)

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