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ジェネラリストを極めて【ACEトークvol.8:前編】

※2021年11月26日にYouTubeライブ配信した「ACEトーク」のレポート記事です 

児童労働から子どもを守る国際協力NGO、ACE(エース)で働くスタッフを毎月1人ずつゲストに迎えてこの道を選んだきっかけや仕事にかける想いを聞いていくYouTubeライブ配信「ACEトーク」。司会はACE啓発・市民参加事業の青井彩乃と杉山綾香です! 

第8回はACEの事務局長、小林裕さんがゲストです!

小林裕さんプロフィール

Ayapedia_小林裕

インドに魅了されて、児童労働の世界に。

青井(司会):最初は環境問題をやりたかったけど、該当するゼミが開催されなかったからインドの児童労働をテーマにしたゼミを選択した、ということなんですね。インドに行ったのがきっかけで児童労働を扱うようになったということですが、児童労働にもともと関心があったわけではなかったんですか?

小林:正直、児童労働はゼミに入るまでは特に思い入れがあったというわけではありませんでした。ゼミのフィールドツアーでインドに行ける機会があって、インドに行くなんて面白そうだなっていう、インドへの興味の方が大きかったです。

青井(司会):児童労働をやるようになったのは、インドに行ってみて実際に児童労働を目の当たりにしたのがきっかけという感じですかね。プロフィールに何度も訪れたとありますが?

小林:もう完全に、本当にハマっちゃったんです。

青井(司会):ハマっちゃったのはインドにですか?それとも、なにか社会問題とか?

小林:両方です。 それで、いろんなNGOに話を聞いたり、現地の活動先を訪れたり、それこそマザーテレサのところに行ったり、色々やってました。

青井(司会):そうなんですね。そのゼミに白木さんもいたんでしたっけ?

小林:そうです。たまたま、副代表で元事務局長の白木朋子とは同級生で同じゼミ出身です。

青井(司会):それってすごい偶然ですよね!

ACEの立ち上げ秘話

小林:児童労働ってすごく珍しいけど面白いトピックだから、このゼミでの活動を、学生が終わってもずっと続けていきたい、2年間ものすごくたくさん学んで、積み上げてきたものを、社会人になったらパタッとやめてしまうのではなくて、みんなでちゃんと続ける場を作りたいなって思っていたんです。
それで、いろんなところの勉強会に顔をだしていたんです。そんな中である時、大阪の国際子ども権利センターでインドの児童労働に関する勉強会が開催されるから、じゃあこれに行ってみようってなって。白木朋子とあともう2人と一緒に青春18切符で行って(笑)。そこで出会ったのが現ACE代表の岩附由香でした。
その後岩附から白木に「(児童労働に反対する)グローバルマーチの話がきているんだけど、日本でやる人たちがいないから、みんなでやらないか」っていうお声がけがあり、白木から僕に連絡があり、みたいな流れでしたね。

青井(司会):へぇ!その話がきた時はどう思ったんですか?いいねいいねって感じだったのか、それともちょっと迷いとかがあったんですか?

小林:もうあんまり覚えてないけど、そんなに迷わず、いいねいいねってなったと思います(笑)

青井(司会):そこからACEが始まったんですね!それは何年生の時でしたか?

小林:大学4年生です。

青井(司会):4年生か。そこから大学院に進学したということなんですね。

小林:そうです。その時にはもうすでに国際協力、特にインドに関する何かをやるっていうことで、イギリスへの留学は決めていました。
そもそもACEの始まりはそのグローバルマーチを1998年5月にやろう、という期間限定の活動だったんです。それが終わったら留学するから、2年間は事実上休止状態 で、帰ってきて再会してまた始めようという感じでした。

青井(司会):帰ってきて再開したんですか ?

小林:そうですね。どんな経緯だったか忘れちゃったけど、2000年とかに帰国して。その次2002年にワールドカップがあったので、そこからワールドカップキャンペーンとかに向かってたんだと思います。

すぐまたやりたいことがかわっちゃって


正しい情報を日本に広めるために

青井(司会):なるほど。その時小林さんは就職してたんですか?

小林:2001年に就職しました。

青井(司会):それは国際協力系のお仕事だったんですか?

小林:そうです。僕の場合は、色々なことを学んだり、色々なところで話を聞いたりするうちに、「日本できっちり正しい情報を広める」ということが結局すごく大事なんじゃないかと思うようになりました。それでODA関係を扱っている出版社に入って、JICAの広報誌とかを作ってました。

青井(司会):なるほど!やりたいと思うことに、どうやって関わろう?って考えた時に、「日本に広める」っていうことが見えてきて、それができる就職先を探して入社したということですね。

小林:そうそう。でもね、すぐにまたやりたいことが変わっちゃったんです、いろんな事情があってのことだったけど。
雑誌とか出版社っていうのは「あること」を発信したい人がいて、それを取材して書くのが仕事なんだけど、今度は伝える側もやってみようかなと思って。 たまたま空きのポジションがあったので、今度はFAO国連食糧農業機関の日本事務所で広報官をやったんです。
発信する側として、メディア側の経験もあるということを武器にして、より分かりやすいものをどんどん書いて、作っていくということをやってみようと思って転職しました。

青井(司会):なるほど!
発信する側も伝える側も体験してみて、どう思いましたか?

こっち側とこっち側

小林:両方分かっている方が当然良くて、 やっぱり面白かったですよ。
特にFAOが扱う食糧問題は児童労働と似てて、なんだか分かりにくい、伝えにくい問題なんです。そういう分かりにくい問題は結局、インパクトがあるニュースにのっとられちゃうんです。例えば地震等のたまに起きる大きな自然災害とは違って、慢性的にずっと続いていることってなかなかスポットライトは浴びないし、でも実はそっちの問題も大きいんだよっていうのをどうやって伝えるべきか、ということはすごく苦労しました。

ビジネスの楽しさ、営業の大切さ

青井(司会):なるほどですね、それでそこから6回、転職されたということで?

小林:はい。メディア側のほうがやっぱり面白いなあと思ってまたメディアにもう1回戻りました。フリーになっていろんな人たちを取材して、書きたいこと書いてやろうっていろんなことをやり始めたんです。
そうしたら、今度は本を作るっていう方にどんどん興味がいって。作ったものがちゃんと売れてちゃんと儲かるっていう仕組みの方に興味がいったわけですよね。
それまでの 国際協力系だと、予算があってその中で最大限やるっていう話なんですけど、そうじゃなくて売れるものを作りたいっていう思いがどんどん出てきて。それで今度は自分の趣味である車の雑誌、-コンビニで売ってるような雑誌です- の出版社に入って、車の雑誌をずっと作ってました。
その後、今度は編集長になりたいと思うようになって、そこからの野望は編集長になることになりました。30歳になる前に編集長になってやろうと思って頑張って、車の雑誌じゃないんだけど、違う雑誌で、30歳の時に編集長になりました。

杉山・青井(司会):へえ!編集長だったんですね!

小林:やってみて、まあなるほどこういうもんかと。そうするとそれまでは記事1本とか特集を作って、ある程度満足してたけど、今度は編集長として雑誌をビジネスとして成功させないと面白くないわけですね。 だから営業が必要なんだなって思って。
それまではなんとなく、営業を毛嫌いしてて、なんか体育会系の根性なんでしょう? みたいな感じであんまり興味なかったんです(笑)
でも結局、ビジネスをやる・ちゃんと売れて、広告が入って、儲かるようにするには営業が大事なんだなって言うことが分かって、そこから 1回ちゃんと営業を勉強しようと思うようになりました。それで、また違う会社に行きました。
そこはもう、すごい営業会社でした。その会社は翻訳とか、いろんな制作物を請け負う会社なんですけど、電話帳とかホームページとかから突然電話をしてアポを取って現地に赴いて、その場で仕事を取ってくるっていうスタイル で、非常に鍛えていただきました。大変でしたけどすごく勉強になりましたね。

杉山(司会):つまり20代で既に3回ぐらい転職してるってことだよね。

小林:そうだね。編集長になった後はもう30代だったけど。

青井(司会):うんうん、あれ、1回フリーにもなってるんですよね?

小林:そうです、フリーの時期は2年ぐらいでした。

青井(司会):へえええ!ちなみにフリーランスって、自分で取材して記事にしてそれを雑誌社とかに売るっていうことですか ?

小林:そうです。

青井(司会):そういう感じなんですね。それで、営業はやってみてどうでしたか?

小林:営業。すごい大切なことで、本当にビジネスの根幹だっていうことがよくわかったし、度胸も付いたし。こうやって仕事を取ってきてビジネスって成り立っているんだっていうのがよくわかりました。

青井(司会):なるほど!

後半では30代以降、営業からここまでどうやってきたかというお話をお伺いしたいと思います。

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