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#51|12 2020年9月3日 ぬるま湯

 そろそろ食料の買い出しに行かないといけないな。そう思いながら戸棚を開ける。目分量で1食分だけ残しておいたフェットチーネがあったのでなんの芸もないが、またジェノベーゼを作ることにした。小さめの鍋に水を入れて火にかける。火にかけると言ってもIHなので電源を入れる、と言う方が正しいかもしれない。温まるまで時間がかかるのでいつも先にお湯を沸かし始める。にんにくを刻んでオリーブオイルで火を通す。お湯が沸いたので塩を入れる。この時、入れすぎたためにかなりしょっぱくなってしまうのをまだ知る由もない。パスタを茹でていると同居人が台所に来て調理を始めた。彼は大きめの鍋に刻んだにんにくを入れて、ぎこちない手つきで玉ねぎをみじん切りにしている。一度ざるにあけたパスタをフライパンに移してソースと絡めようとしたが、思ったよりもパスタの量が多くなってしまい、なかなか混ざらない。パスタはいつも多く茹でてしまう。そもそも目分量の「1食分」がかなり多かったのだ。何とかソースが絡んでいないのを黙認しつつ皿に盛る。自分の部屋に持っていく前に使った鍋とフライパンを手早く洗う。皿を先に部屋に持って行ってから、コップに氷を入れて水道水を注ぐ。それにしてもしょっぱかった。
 この街に来てから1番まずい料理を食べていると、「何かつまみにでもいく?」とMからメッセージが来た。中1日で誘ってもらえるということは一昨日は悪い印象は与えなかったようだ。安堵するのも束の間、キャッシュカードの問題があることを相談すると、もう銀行の窓口は閉まっているんだから明日にした方がいい、と言われた。それもそうだ。とりあえず8時過ぎに向かうと伝えた。
 カスティーヨ広場にあるTxokoという店にいると言っていたので、ようやく暗くなり始めた街を歩いて行く。Mが僕を見つけて歩いてきた。
「元気?この間は楽しめた?最後に会った私の友達とは気合った?」
「楽しかったよ。1軒しか一緒に行かなかったし1杯しか飲んでないからあまり彼のことは知れなかったけど、悪い人じゃないと思うよ。」
「あ、そう。ちょっと変な人だけどね。今日は私の同居人と一緒に飲んでるの。ここに座んなよ。」
Tはスペイン人の男で割とやせていてブロンドの短髪が良く似合っていた。普通なら握手をするところだが、肘と肘を合わせた。2人ともちょうど来たばかりらしく、ちょうどウェイターがグラスを2杯持ってきたところだった。自己紹介を簡単に済ませて、席に着いてビールを注文した。さほどビールは好きではないが、アルコールが低いのと安さのおかげでよく飲むようになってきた。すると間もなくもう1人の同居人がギターを背負って到着した。Tにそのギターを見せながら何事か2人で話している。3人用の席に座っていたので、隣の少し大きい4人で座れる席に移動することにした。女性同士でバスク地方の独立運動やETAの歴史などについて盛り上がり始めたのを見てTが話しかけてきた。
「ああなったら、いつも俺は蚊帳の外だよ。というか自ら進んで外に出るね。」
「たしかに何を言ってるかわからないね。スペイン語が理解できても何を話してるのかわからない。」
「1本吸うか?」
「いや、たばこは吸わないんだ。」
「どうしてさ。」
「どうしてもだよ。それの作り方教えてよ。」
Tは嬉しそうに手巻煙草の作り方を教えてくれた。当然作り方は前にも他の人に見せてもらったことがるので知っていたが、いい話のタネにはなる。手巻煙草は市販のたばこを買うよりも体には悪くないし匂いもきつくない、と意気揚々と話していた。彼の1番のお気に入りはインドネシアのGudang Garamだが、スペインでは売っていない、ネットでは買えるがかなり高い、と言ってマルボロを吸っていた。
 Mがお腹空いたから何か食べたい、一緒に何か分けて食べよう、というので任せた。スペインではかなり一般的なバルのメニューであるパタタス・ブラバスとイカのから揚げが出てきた。何人前を注文したのか聞いていなかったが、かなりの量が出てきた。どちらも味が濃い目で酒がどんどん進まさる危険な味付けで、すっかり「タハタハ化」してしまった。僕がゆっくりイカを噛みしめていると、Mがこちらを見て、そのゆっくり噛んでいるのを見るのが好きだ、と言ってどこかいたずら好きそうな笑みを浮かべていた。

 トイレから戻ると同居人の2人は既に会計を済ませて席を立っていた。Mは1人で少し疲れたような表情で携帯電話を見ていた。なぜかわからないが他の2人のことについては何も触れずに今行ったバルのトイレが汚かったことを言うとMは嬉しそうな顔をして、当たり前だ、と言った。
 残りのパタタス・ブラバスとイカをゆっくり味わってから2人で席を立つことにした。割り勘にしたいとMが言い、現金をあまり使いたくなかったのでMから20ユーロ札を受け取り、5ユーロ札を渡した。ひとりあたり16ユーロの計算だったのでMは1ユーロ貸しになると言っていたが、そのくらいいいよ、どうしてもというなら1に0を2つくらい足して返してよ、と言うと笑っていた。「明日1ユーロ返すね。」とMは最後に行って席を立った。
 Mに帰り道の方向を聞かれたので、指をさすと、
「私の家もうここなんだけど一瞬中見ていく?ワイン1杯くらいなら出すよ。」
「じゃ、お言葉に甘えて。」
そう言って部屋に上がっていくと、窓が開いていたのでまだ外の雑踏が聞こえていた。少し散らかってるけど、そう言って案内された彼女の部屋は確かに少し衣類がほっぽり出されていたが、棚などは蝋燭と本が綺麗に整頓されていた。僕は蝋燭に目がないのですぐに飛びついた。バニラの香りが甘ったるく鼻に張り付いてくる。一冊の本を手に取ってMが「これが前に話したインタビューをまとめてある本で、”ナカムラ”って人が2人出て来るんだよ。」と言いながらページをぱらぱらとめくった。
 床のタイルがお気に入りだというバスルームや空き部屋などを案内してもらっていると先ほどの同居人たちが不思議そうな驚いたような顔でこちらを見ていた。それから台所にある小さなテーブルで2人で赤ワインを2時間くらいかけて飲んだ。幼い頃親の言うことを聞かなかった時はよく”ハラキリ”をするよ、と脅されたことや、日本語の書き方などについて話した。またしても話題は日本や日本語に関係することばかりであまり自分自身のことを話していない状況に嫌気がさしながら、ところどころ英語を混ぜながら話す自分が、どうもぬるま湯に浸かっているような気がして情けなかった。それでも今ここに座ってワインを飲めていることだけでも小さな幸せだったと思うようになるだろう。

(9/4 18:46 パンプローナ自室にて執筆)


現在、海外の大学院に通っています。是非、よろしくお願いします。