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震災12年目②

夜になり、電気のない私たちは床につく以外にやることがなく、私と父だけがトイレのついでに少しだけ外の様子を見てみた。
高台にある私たちの家からは長い道路が見えるのだが、その道路いっぱいに車が並んでいた。初めて高速道路以外であんな渋滞を見た。どこまでも続いていくその光が奇妙だった。
空を見上げると、恐ろしいほど星が綺麗だった。田舎なのでもともと星は綺麗なのだが、あの時の星空は沖縄の古宇利島で見れる星空に匹敵していた。
家に戻ると、また大きな揺れが来た。ラジオでは余震に気をつけろということを繰り返し言っており、災害用の伝言ダイヤルのアナウンスを繰り返し流していた。
夜が明け、近所の人が「発電機がある」と伝えに来た。雪は止んでいた。
町内の集会所に行くと、近所の人が有志で貸していた発電機が回っていて、みんなそれで携帯の充電をした。これは怒られてもいい話だが、子供たちは余ったコンセントでゲーム機の充電をしていた。だが大人は誰も怒らなかった。でもなんとなく、あんな地震が起きた後に、誰もそんな子供達を起こる気になれないような気もする。少なくとも、私はそうだ。
誰かがワンセグがついたケータイを持っていて、みんなでテレビを観た。
そこで初めて私は津波の映像を観た。想像を絶するとはこのことを言うのだろうと思った。祖父母の家は町を見下ろすような高台にあったので、家にいる限りは大丈夫なはずだ。だがそもそもあのぼろ家が無事なのかわからない上に、買い物などで石巻の方に出ていたらアウトだった。
その後、近所の子供達と町内を見て回った。道路がパックリ割れていて、中の水道管が見えた。と言うか、道路の中に入れた。学区中がそうなっていた。崖に近い家は傾いていて、その家族は学校に避難したようだった。余談だが、そうした家族の多くは数年家に帰ることできなかった。同じ中学に行くはずだった友人は、違う学区に行った。
私たちは自転車で友人の家を回って、無事を確認しに行った。その道中、コンビニのおじさんが内緒でぐちゃぐちゃになった店を開けてくれて、そこから無事な食料を探して買った。大勢が押し寄せると困るので、少しずつ店を開けているtのことだった。学校に行くと、プールの水をタンクやペットボトルに入れて配っていた。私は家からペットボトルを持って行って、水をもらった。これでトイレがまた流せると思った。先生方はどうやら学校に泊まったらしかった。昨夜の渋滞では家に帰れるかわからなかったから、正しい判断だろう。
そうして二日目が終わった。二日目が終わり、三日目になり、どうやら私たちの住んでいる地区は死者もなく、あとは電気と水道さえ復活すれば特に問題はないらしいということがわかった。食料は学校が備蓄を配っていて、子供が小学生の私たち家族は普通に並んで、普通に食べ物にありつけた。そのうち自衛隊も来て、水や食料を配って行った。そして四日目に、電気が点いた。水道も復活した。
電話も繋がった。
祖父母は無事だった。運良く買い物から帰ってきたばかりだったらしい。家も無事だった。だが、母方の親戚の家は流されて、避難所にいるようだった。宮城から沖縄に行った私の今の実感からすると、同じ県内にいるにも関わらず、お互いの安否があれほどわからない状況というのはやはり異常だったなと思う。電気が復活し、テレビがついた事で、常に今の状況がわかるようになり、ものすごくホッとした。福島の原発が壊れたという情報はその時にちゃんと入ってきた。
色々な情報が錯綜していた。
だが、だとすれば数日間外で活動していた私たちはもう放射能にやられているはずなので、これはデマだろうというのが周りの意見だった。変な話だが、あの時ツイッターなどをやっていなくてよかったと思う。緊急時の情報収拾は確かに大切だが、真偽が定かではない情報がたくさん流れてくると、正しい行動が取れなくなる可能性がある。福島の話は、まさにそれだったように思う。
食料面ではまだ不安もあったが、ものすごい速さでスーパーやコンビニが再開店して、すぐに不安はなくなった。内陸部とは言え、あそこも最大震度7だったのだ。よく数日で開店まで立て直したなと思う。きっと、自分の生活よりも、人々の生活を優先した人が大勢いたのだろう。
あとはガスが問題で、私たちは数日風呂に入れていなかった。だが自転車で50分くらいの位置に住む親戚の家がプロパンガスだったので、我々は風呂に入りに行くことができた。その道中、ガソリンスタンドに入るのに数キロも並んでいる自動車を見た。いつまた地震が起きるかもわからない。田舎の足は車しかないし、車があればテレビも見れるし、家にもなる。震災を機に、常にガソリンは満タンにしておくという家庭が増えた。
そのうちガスも復活し、私たちは普段通りの生活に戻りつつあった。卒業式は、二週間以上遅れて行われた。
だが当然、津波で被害に遭われた方々、福島で避難された方々の生活は、すでに「失われてしまった」後だった。テレビでは連日被災地の状況が報道され、ACのCMが延々と流れた。それは日本全国の方が知っている事だろう。
だがとりあえず、私たちの家族や親戚の命は無事だった。まずはそれがよかったと思った。

そして10年以上の月日が流れた。
その間に、日本全国で大きな地震が何度も起こった。
私は沖縄に住んでいたので、運良く数年間、大きな地震にあう事なく生きることができた。
だが2021年に、千葉で震度5の地震が起きた。震災に比べれば、小さな地震だ。死者もいないし、津波も来なかった。
その時私は、一人暮らしの家に一人でいた。揺れでフィギュアが倒れた。一瞬、震災の記憶が頭をよぎった。揺れの最中、私は「停電したらどうしよう。水が止まったらどうしよう。家が潰れたら。電車が脱線したらどうしよう」などと考えていた。ものすごい速度で最悪のイメージが流れてきた。そして揺れがおさまると、私は冷や汗をかいていて、心臓はものすごい速さで鼓動していた。いつの間にか立ち上がった脚は、震えていた。
そこで初めて私は「地震が怖い」ということを自覚した。思っていたよりも、震災は私にとって大きな出来事だったのだと思った。
そして、小学生の時大丈夫だったのは、周りに両親や先生、近所の人という頼れる大人たちがいたからなのだと思った。あの時、みんな不安だったはずなのだ。初めて地震が怖いと感じた私のように。だがみんなそれを感じさせることなく、気丈に振る舞い、ものすごい速さで元の生活を取り戻して行った。それがどれだけ凄いことか。どれだけ偉いことなのか、10年以上の歳月が経って、私はようやく気がつくことができた。
そして、「次は俺の番なんだ」と思った。いつまでも震えていられない。
次は私が、子供達や愛する人々を守る番なのだと。
その時私はまだ就職活動を始めていなかったのだが、私はそれで「防災系」の仕事もいいかもしれないと考えるようになった。
結果的に、そういう私の想いを汲み取ってくれる会社に就職することができた。
私が引き継いだバトンを、後世に繋いでいけるように、私は春から頑張りたいと思っている。

ここまで読んでくださりありがとうございました。まとまりのない文章になったのですが、春から就職するにあたり、なんとなく書いておこうと思いました。拙い文章で申し訳ありません。もっともっと書くことはあるのですが(津波で大きな被害を受けた鮎川町とか)、またの機会にしようと思います。改めて、読んでいただきありがとうございました!

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