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子どもには「遊びが必要」と意気込んで出鼻をくじかれる

頭でっかちだった私がようやくたどり着いた「子どもは自ら育つ」。ここからは、自ら育つ子どもたちをどのようにサポートしていけばよいのか、ということについて、私の考えた道筋を振り返っていく。


自ら育つ場としての「遊び」

私が公園で出会った忘れられない風景は、子どもたちが遊びを軸にして織りなした一つの作品だった。それは、子育てに疲れた母親と、公園に来ても上手く周りの子どもたちと遊べない息子たちの心を、大きく動かした。

あの風景の真ん中にあったのは、まぎれもなく「遊び」。

子どもが小さい頃は、着替えさせて、ご飯を食べさせて、こぼしたら掃除して、合間に家事をして、おむつを変えて、お風呂に入れて、寝かせて、とエンドレスな感じで一日が過ぎる。生活のさまざまな場面において、子どもたちは、常に親の介助を必要とするので、親としては「次は何するんだっけ」と、何かに追われているような生活だった。

そんな一日の中で、子どもを「遊ばせて」という項目は、私の中に無かった。というのも、子どもたちはどんなに小さくても、遊ぶことだけは自分たちで自主的にやっていたから。

ちゃんと寝て、ご飯を食べた状態の子どもを放っておくと、子どもは必ず遊ぶ。遊びだけは「遊びなさい」と大人が指示しなくても遊ぶ。それくらい、遊びは子どもにとって、プリミティブな行動だ。

子どもが自ら育つ、ということを信じれば、子どもは育つために必要だから遊ぶとも言えるのではないだろうか。

実際、子どもが遊びを通じて成長、発達するということは、さまざまな教育法や発達の専門家などがあちこちで説いている。

・身体の使い方(運動能力、手先の器用さ)

・コミュニケーション能力(表現力、交渉力)

・ルールを守ることの大切さ(理解力、忍耐力)

・他者とのつながりの大切さ(社会性)

・創意工夫(問題解決力)

などなど、人が生きていくために必要なさまざまな能力が、遊びの中で培われていく。

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もちろん、子どもは「自らの能力開発のため」なんて、これっぽっちも意識していないけど。

そして、遊びがさまざまな能力を育てる最大の理由は遊びが、子どもたちが「自ら選んだ」ことを、「自発的」にするからだ。

よっぽど特殊な場合を除いて、子どもたちが遊ぶときは、自分の興味のあることを選ぶ。自由な時間、何をしても良い状態でわざわざ選ぶものといえば、やはりその子にとって純粋に「好きなこと」だろう。

「好きなこと」を「自発的に」やり始めたとき、人間はもっと楽しくしたい、もっと向上したいと思い、それを行動に移す。これはどんな人にもプログラムされているしくみだ。

かくれんぼをしていたら、「なるべく見つからないように」と毎回隠れる場所を必死に探す。河原で水切りをしていたら、一回でも多く石を跳ねさせたいと、石を選んだり投げ方を工夫したりする。子どもたちの中から自然と湧き出る「向上心」ほど、子どもを成長させるものはないと思う。

大人だってそうだ。マラソンが好きな人は、少しでもタイムを縮めたいと頑張るし、料理が趣味の人は、もっともっと美味しいものを作りたいと工夫する。「自分が選んだもの」を「自発的」に行っている時にこそ、人間は大きく成長できる。

なので、最もシンプルに言えば、子どもはしっかり遊ばせておいたら、生きていくための力は育つ、ということになる。

知識や技能などは学校や習い事に行けば学べるもの。それ以外の生きていく力はしっかり遊ぶことで、身につけさせればいい。私自身も、毎日毎日暗くなるまで、たっぷりと遊んできた人間だったので、子どもたちには「遊ばせる気満々」でいた。

すっかり変わってしまった遊びの風景

なのに、である。今の社会では、残念ながら「遊び」はかなりぞんざいな扱いを受けている。

遊ばせる気満々の私は、遊ぶ気満々の子どもたちを連れ、子ども達の最初の遊び場として近所の公園にデビューし、愕然とした。そこには、子ども達が自由に遊べる環境とは程遠い公園があったのだ。

広場は「ボール遊び禁止」、砂場は道具の取り合いの解決策として「貸して」「ありがとう」を言わせるママたちのしつけ合戦。水道はジャージャー使おうものなら大人に注意され、ベンチには無言でゲーム機に没頭する小学生。

ざっと見回したところ、生き生きとクリエイティブに遊んでいる子どもは見当たらず…。 

そりゃあそうだよね。ここまで子どもの行動を制限すれば、たとえ自発性が発動されたとしても、「あれだめ、これだめ」ですぐにかき消されてしまう。子どもたちが公園で学ぶことと言えば、公園にあるさまざまなレギュレーションに引っかからないように、遊ぶ器用さぐらいである。

ビジネスマン並に忙しい子どもたち

遊びの場の惨憺たる現状にショックを受けた私に、さらに追い打ちをかけるようにつきつけられたのが「子どもが忙しい」問題。

今の子ども達は習い事が忙しく、「そもそも自由に遊ぶ時間がない」という事態が発生していた。

私が住んでいる地域はとても教育熱心な地域なので、幼稚園くらいから、塾やそろばん、習字、英語といった学力系からスイミング、サッカー野球、体操、テニスという運動系まで、さまざまな習い事に行き始める。

忙しい子は、朝学校に行ってから夕方習い事が終わるまで、遊べる自由時間がほとんど無い。塾に行きだすと、夜遅くまで帰ってこない。そこらのビジネスマン並に忙しい子どもたちがたくさんいるのに驚いた。

うちは、本人が行きたいといった習い事に、せいぜい週に一回通う程度だった。それ以外は「いつでも遊べる」というヒマな子どもだったが、周りの友達は忙しく、なかなか遊べる日がないということに愕然とした。

「子どもの遊びを確保しなければ!」

塾や習い事も、子どもが育つ場であることは確かだ。でもそこで身につけるのは、知識であったり、技能であったり。生きていくために役に立つ「道具」のようなもの。そこでは、「コミュニケーション力」や「創意工夫力」といったものは、必要とされることが少ない。

また、塾や習い事の時間は、基本的に大人が決めたことをするため、どうしても受け身になる。子どもたちが「自分で考え、選んだことを自発的にする」という時間が少ない。昼間通っている学校も、基本は決められたことをする時間がほとんどなので、子どもたちにとっては朝から晩まで決められたことをしている、という状態だ。

塾や習い事はいつも大人が監視をしている。子どもたちを正しい方へ導いてくれるだろうが、多くの場合、大人が正解を教えてしまう。そのため、子どもたちが存分に失敗する機会や「なんでうまくいかないんだろう」とじっくり考えたりする機会が少ない。

今の子どもたちは自由に遊べる場所と自由な時間、どちらも十分に与えられていない。そのことに大きな危機感を抱いた私は、自分がやるべきことがはっきりと見えた。子どもたちの遊びの「場」と「時間」、なんとしてもこの二つを確保していかなければと思った。



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