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自由に遊べる「時間」と「場所」をわざわざつくる(後編)

後編では、家の中での「遊び」と、遊びを極めていった子どもたち起こった出来事について書いてみようと思う。

自宅を子どもたちの創作の場に

外遊びの場所はについては、なんとか確保した。あとは、自宅での自由な「遊び」をどう実現するか…である。子どもたちは外遊びももちろん好きだけど、家の中の遊びも同じくらい好きだ。
ウチの場合、二人とも何かを創ることがとても好きで、何かを創っているときは、高い集中力を発揮していた。ということで、家の中に「自由に創作をしても良い部屋」を用意した。

ただし、「創作」といっても、子どもたちの「創作」はいわゆる大人が考える作品のような「創作」であるとは限らない。作品としてというより、「遊び」の一つとして、自分たちが創りたいものを「自発的に」創る、という意味の「創作」だ。

よく、家で子どもが遊ぶと「散らかる」という声を聞くが、「散らかる」というのは、大人の立場から見た景色で、よーく見てみれば、散らかっているのではなく、おもちゃを使って子どもなりに色んな空間を「創っている」という場合がある。それはもう立派な「創作」だ。

そんな風に見てみると、子どもは十分に立派な作家であることがわかる。

指先が使えるようになった赤ちゃんが、自らテッシュのしくみに気づき、ティシュを延々を引きずり出してティシュの山を創る、それは立派な「創作」。

押入れの一部に秘密基地をつくるのも「創作」。

大人が台所で料理をしていると、「やらせて」と手伝いたがるのも「創作」。

子どもたちにとって、何か新しいことをやってみようというのは、すべて「創作」活動の一部だ。

かっこよく言えば、子どもたちは、家の中でも自由と空間さえ与えれば、十分「クリエイティビティ」を発揮できるということ。

子どもは興味を持ったものを創るときに、視覚や触覚などの感覚をフルに使う。実際、何かを創っている最中の子どもは驚くほど高い集中力を見せる。

手を使って頭を使って一心不乱にものを創ることで、子どもは自身の感覚をどんどん研ぎ澄ましている。その証拠に、子どもがただ自由に作っている工作や、絵などは、誰に教わったものでもないのに、どんどん進化していく。

新築のお家などで、「子どもがいるので、家が汚れたり散らかったりしてイヤ」という声も聞くが、家での子どもたちの活動が、「創作活動」であり、もっと言うと、「色々な感覚を成長させている」…という風に見れば、遊びも違って見えるかも知れない。

ということで、ウチでは、基本、家の部屋や庭は「創作活動」自由に使ってもOKということにした。

環境さえ与えれば、子どもたちはどんどん「創る」

子どもたちが小さい頃は、工作が好きだったので、牛乳パックや卵ケース、ペットボトル、廃材などを捨てずに集めておいて、自由に使える工作コーナーを作った。もちろん、ハサミやカッター、ボンドなども使い放題。

次は、木工に興味を持ちだしたので、のこぎり、トンカチ、ドリルなども自由に使わせた。木工では野球盤ゲーム、勉強机などを作っていた。

次にハマったのが、科学実験。薬品を混ぜてスライムを作ったり、金属を溶かして結晶を作ったり。

料理やお菓子作りなども、包丁や道具を自由に使わせてやらせた。

どんどん創るものが高度になったのは、子どもたちが、「創る」過程において、経験だけでなく、色々な情報が大切だということに気づき出したからだ。

そのため、ウチでは情報収集源として本だけでなく、パソコンを使うことはOKにしていた。パソコンで調べれば、色々なものの作り方の情報はすぐに手に入る。後は、必要な材料を一緒に買いに行って、創るだけ。

そんなこんなで、最終的には、「パソコンを作りたい」と言い出した。作り方を調べ、予算を決めて、中古のパーツ屋さんで部品を揃え、子どもたちだけで組み上げた。

結局、その延長で、パソコンの中身を作りたいと、プログラミングも独学で学び始めたようだ。

ちなみに、どれも私がやらせたのではなく、子どもたちが「やりたい」と言い出したものを、実現可能な範囲でやらせたものばかりである。

遊ばせる「勇気」

「自宅に創作の場」というと、カッコよく聞こえるが、要は壁にガンガン釘を打たれたり、床が傷だらけになったりするということ。また、活動の場が子ども部屋だけでなく、リビングやダイニングにまで広がってくるということもしばしばだった。

これは、人によっては不快になったり負担になったりするかもしれない。家は家族の共有スペースなので、子どもたちの活動場所をどこまで許すかなどは、各家庭で話し合う必要があるだろう。

そして、もう一つ母親、父親がしっかり話し合っておかなければならないことが、「本当に遊ばせておいていいのか」という問題。

子どもが自由に遊べるためには「時間」や「場所」を与えることも必要だが、一番必要なのは子どもを遊ばせる「勇気」かもしれない。

「忙しい子どもが多い」と書いたが、実際周りのお友達は、塾や英語、そろばんなど、学校以外の場所でどんどん学力や知識をつけていく。それを横目に見ながら、子どもたちの「遊び」を優先させるというのは、親として勇気がいること。

後数年したら受験がある…とわかっていたら、やっぱり遊ばせておく、というのはとても不安なことだと思う。

ウチの場合は、「小さいうちから勉強をさせること」と「しっかり遊ばせること」この二つを天秤に掛けたとき、やっぱり遊びを優先させたい、と私も夫も納得していたので、こういう環境が実現している。

親のうち、どちらかが「遊びより勉強が大事」と思っていたら、これは実現しなかったのだと思う。

「遊び」も極めれば何かに到達する

こんな感じで、家にいても勉強なんてろくすっぽもせず、遊んでばかりのウチの子どもたち。

親として、「子どもの育ちのため」と決めたことだけれど、周りの子どもたちを見ていて、不安にならなかったといえば嘘になる。

でも、その不安を消してくれたのが、子どもたちだった。なぜなら、子どもたちの遊びは、目覚ましいほど進化し続けていたから。子どもたちは、遊びを通じて「創意工夫力」や「集中力」なと、さまざまな力を身に着けていた。

また、科学実験は「理科」、料理やお菓子作りは「家庭科」、工作やパソコンは「技術科」といったように、学校で学ぶような知識も遊びの中で身に着けていたのだ。

さらに、「遊び」もとことん極めると、新しい世界を広げるほどの力を持つことがわかった。

ウチの子達はいわゆる「お絵かき」も好きで、自宅には彼らの書いた絵が所狭しと飾られている。そして、写真好きの父親の影響か、写真を撮るというのも遊びの一つになっていた。

ある日、長男が書いた絵を見たとあるギャラリーの館長さんが、長男の絵にとても興味を持ち「個展を開きませんか」という提案をくださった。

「子どもたちが個展?」と、私にとっては晴天の霹靂だったが、こんな機会はめったにないとお受けした。

提案を受けた時、既にウチには絵や写真、陶芸作品など、個展に出せそうな作品が山程あった。まさか、遊びで創っていたものが日の目を見ることになろうとは。しかも、個展の機会を掴み取ったのは、長男が描いた「絵」の持つ力。遊びを極めておいてよかったなと、心底思った。

「遊び」で作ったプロダクトがグランプリに!

長男のグランプリ受賞も、彼が自由な時間をたっぷり持っていたからこそ生まれたもの。彼は、受賞の挨拶で「出来心で作った掃除botが…」と言っていたが、プロダクト開発の出発点はまさしく彼の「遊び」からだった。

学校の勉強もろくにせず、塾も行かず、ゆるーい部活にだけ行っていた息子。通っていた高校は、勉強&部活バリバリの進学校だったので、周りは忙しく充実した高校生ばかり。彼は、その高校で、随一の暇人だった。

ある日、彼は学校の掃除当番表(紙でできた円形のくるくる回すヤツ)をぼーっと見ていた。「保健委員以外回すな危険!」と書いてあるその当番表は、数々のトラブルを発生させていた。

「保健委員が回し忘れる」「誰かが勝手に回す」「掃除場所を連絡し忘れる」…など。

アナログであるがゆえに、本来の機能をちゃんと果たしていない当番表を見て、ふと、彼は部活で覚えたプログラミングを使って、問題を解決できないかな、と思いつく。彼が「自発的に」「やりたい」と思ったこと、つまり彼なりの「遊び」である。

自由時間の多さなら誰にも負けない彼。思い立ったら、徹底的に調べまくって、丸二日ほどでクラスの皆に掃除当番を通知するLINEのbotを作った。

おそらく彼が、勉強や部活、塾などで忙しい毎日を送っていたら、丸二日も没頭して開発をするというエネルギーや時間がなかったと思う。彼は、とにかく暇で、エネルギーが有り余っていたので、自分で見つけた「遊び」に没頭できたのだ。

結局、その後「未踏ジュニア」というプログラムに応募する際に、そのプロダクトを発展させることとなり、さらにはコンテストでのグランプリ受賞へと繋がっていくのである。

次男が囲碁を目指すようになったのも、もちろん「遊び」から。

「遊び」は彼らを確実に育てている。そのことが、私がこういう子育てを続けられた本当の原動力かもしれない。

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