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こういう年の取り方をしたい

青春時代にファンだった歌手が、年齢を重ねた現在、ふたたびマイクを握っている。そんな動画を、私はしばしば視聴している。

今流行りの楽曲をカバーしたり。
若かりし頃のヒット曲を、キーを下げて歌ったり。
伝説的なロックバンドの歌手でさえも、ファルセットやビブラートなどの発声が変わっていたりすると、「この人も大人になっちゃったんだなぁ」と感慨深くなるものだ。

寂しくなることもあったが、「こんな年の取り方もいいな」と思い直すことが、このごろ増えてきた。
若かりし日の、ハリのある高音は、過去のもの。
今は、大人のクールさと、こなれた低音が武器。
そして何と言っても、歌い方が変わっていない。心を込めるように、丁寧に歌う。
そんな魅力的な姿を見ていると、こういう年の取り方もいいな、と心を揺さぶられるのだ。

去年の暮れの話になるが、ゲーム制作の相棒に「短編小説を書いてみたらどうですか?」と勧められた。
短い作品なら、比較的作りやすいし、いろいろと文学技法を実験しやすいだろうという目論見だったようだ。

だが、私はずっと着手できずにいた。
短編と言っても、そんな容易なものではない。むしろ短いからこそ難しい。
小説講座を開いている人の著書には、短編の名作の多くは、書き手が若い時に手掛けたものだとも書いてある。
年齢を考慮しなくても、ドラマの一瞬を切り取るのは、エネルギーが要る。
さらに、ドラマティックな一瞬でありながら、作品として完成度を上げなければならない。

ただでさえ私は、短編小説を書いた経験が少ない。
それに、短編の正しい書き方なんて知らないし……

そんな矢先、相棒は、一冊の文庫本を携えて、私との待ち合わせ場所に現れた。
その本というのは、筒井康隆さんの「短編小説講義 増補版」
帯には作者の、ストレートな金言が記されていた。
「小説は何をどう書いてもいいのだ。」
黒い帯に白い文字で、まるで夜空にひらめく稲妻のように、鮮烈だった。

実際その本を開いてみると、短編の正しい書き方についてのハウツー本などではなかった。
短編小説を書こうとする人の、気概を叩き直してくれる書だったのだ。

ディケンズやマーク・トウェインの短編小説が、いくつか収録されている。表現や技巧について、作者は最大の敬意をもって解説してくれている。
読んでみて驚いた。なんと、紹介されているいずれの作家も、今の私よりもずっと年上になってから名作短編を書いていたのだ!

そのことが発覚して、私は一気に肩の力が抜けた。
年齢だの、ドラマを切り取る力だの、そんな細かいことは、短編を書くための条件でも何でもない。

自由な精神。
それだけが、短編小説を書くのに必要な切符だった。

もしかしたら、しっかり勉強した小説家というのは、年を取るにつれて、自由を求めていくのかもしれない。
だとしたら、そんな年の取り方は、まさしく理想というより他にない。

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