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abraxas
2021年4月12日 11:16
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十七章(1)【訳文】 アスレティック・クラブのベルボーイは三分後に戻ってきて、一緒に来るようにうなずいた。四階まで上がり、角を曲がったところで半開きのドアを私に示した。「左に折れたところです。できるだけお静かに。何人か、お休み中の会員がおられます」 私はクラブの図書室に入った。硝子戸の向こうに本が、長い中央テーブルの上には雑誌が置かれ、クラブの創立者の肖像画
2021年4月4日 12:07
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十六章【訳文】 階下の廊下は両端にドアがあり、中ほどにもドアが二つ並んでいた。一つはリネン・クローゼットで、もう一つには鍵がかかっていた。突き当たりまで行って予備の寝室を覗いてみると、ブラインドが引かれ、使われている様子はなかった。もう一方の突き当りまで引き返し、二つ目の寝室に足を踏み入れた。幅の広いベッド、カフェオレ色の絨毯、軽い木で作られた角張った家具、ドレ
2021年3月27日 23:01
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十五章(2)【訳文】 銃を取ろうと手を伸ばしたが、私の手は卵の殻のようにこわばって、今にも壊れてしまいそうだった。私は銃を受け取った。女はさも嫌そうに銃把に巻きついていた手袋の臭いを嗅いだ。そして、それまでと同じように、変に理屈が通っているような調子で話し続けた。私の膝がぽきっと音を立て、緊張がほぐれた。 「ええ、もちろん、あなたの方が簡単」彼女は言った。「車
2021年3月19日 11:38
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十五章(1)【訳文】 アルテア・ストリートの交差点を過ぎて交差道路に入り、渓谷の端で行き止まりになっている、歩道と白い木の柵に囲まれた半円形の駐車場に行き着いた。しばらくの間、車の中に座り、考え事に耽りながら海を眺め、海に向かって落ちていく青灰色の山裾に見とれていた。レイヴァリーをどう扱うか考えあぐねていたのだ。下手に出るか、それとも問答無用で容赦なく問い詰める
2021年3月6日 09:34
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十四章【訳文】 冷え冷えとした緑色の水底で腕に死体を抱いている夢を見た。死体の長い金髪が私の目の前を漂い続けている。目が飛び出し、体が膨れ、腐った鱗がぬらぬら光る巨大な魚が、老いた放蕩者のように流し目をくれながら周りを泳いでいる。息が続かず、胸が張り裂けそうになったちょうどその時、死体が息を吹き返し、腕の中から逃げて行った。私が魚と死闘を繰り広げるあいだ、死
2021年2月24日 12:58
チャンドラー『湖中の女』を訳す 第十三章(2)【訳文】男はほとんど踊るように入ってきて、かすかに薄笑いを浮かべながら私を見て立っていた。「飲むかい?」「ああ」彼は冷ややかに言った。自分でたっぷりとウィスキーを注ぎ、ちょっぴりジンジャーエールを垂らし、ひと息にごくりと飲んで、すべすべした小さな唇に煙草をくわえ、ポケットから取り出しざまにパチンと鳴らしてマッチに火をつけた。そして煙を吐き出しな
2021年2月13日 11:11
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十三章(1)【訳文】 十一時頃、平地に降りてきて、サン・バーナーディーノのプレスコットホテルの脇にある斜めに区切られた駐車場の一つに車を停めた。トランクからオーバーナイトバッグを取り出し、三歩ほど歩いたところで、金モール編みの側章のついたズボンに白いシャツと黒いボウタイを身につけたベルボーイが、私の手からバッグをもぎとった。 夜勤のフロントはインテリぶった男で
2021年1月31日 11:39
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十二章(2)【訳文】 オフィスにたどり着いたら パットンは電話中で、ドアには錠が下りていた。話しが済むまで待たなければならなかった。しばらくすると電話を切り、錠を開けてくれた。 私は彼の脇を通り過ぎて中に入り、ティッシュペーパーの包みをカウンターの上に置いて開いた。「粉砂糖の探り方が足りなかったな」私は言った。 彼は小さな金のハートを見て、私を見、カウンタ
2021年1月26日 11:48
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十二章(2)【訳文】ゲートから三百ヤードほどのところで、去年の秋に落ちたオークの枯れ葉に覆われた細い小径が、大きな花崗岩の丸石の周りを回って消えていた。その道をたどって、露頭の石に沿って五十フィートか六十フィート、がたごと揺れながら走り、一本の木の周りを回って、もと来た方向に車の向きを変えた。ライトを消し、エンジンを切って、座って待った。 半時間が過ぎた。煙草
2021年1月15日 11:59
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十一章(3)【訳文】「その女には会ったことがない」私は言った。「だから、何をするか見当もつかない。ビルは一年ほど前にリヴァーサイドのどこかで出会ったと言っていたが、それまでに長く込み入った物語があるのかもしれない。どんな女だった?」「小柄なブロンドで、めかしこんだときは凄くキュートだ。ちょっとビルに合わせてるようなところがあった。口数の少ない娘で感情を顔に出さ
2020年12月27日 11:53
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十一章(2)【訳文】 パットンは立ち上がり、小屋のドアの鍵を開けた。香ばしい松の匂いが部屋中に流れ込んできた。彼は外にぺっと吐き、また腰を下ろして、ステットソンの下のくすんだ茶色の髪をくしゃくしゃにした。帽子を脱いだ彼の頭は、めったに帽子をとらない人の見苦しいなりをしていた。「ビル・チェスにはまったく関心がなかったのか?」「これっぱかしも」「あんたら探
2020年12月22日 15:29
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十一章(1)【訳文】 私道を塞ぐゲートには南京錠がかかっていた。二本の松の木の間にクライスラーを押込み、ゲートをよじ登って、忍び足で道の縁を歩いた。突然、足下に小さな湖の光が微かにきらめいた。ビル・チェスの小屋は真っ暗だった。対岸の三軒の小屋は、青白い花崗岩の露頭を背に、まとまりのない影を見せていた。水はダムの上を越えるところで白く光り、ほとんど音もなく、傾斜し
2020年12月12日 16:55
チャンドラー『湖中の女を訳す』第十章【訳文】 革製の犬の首輪をつけた、人馴れた牝鹿が目の前の道路の向こう側をうろついていた。その首筋のざらついた毛を軽く撫でてやり、電話局の中に入った。小さな机に向かって帳簿の整理をしていた、スラックス姿の小柄な娘が、ビヴァリー・ヒルズまでの料金を教え、小銭を両替してくれた。電話ブースは外にあり、建物の正面の壁にくっついていた。「ここが気に入って頂けるといいの
2020年12月6日 11:06
チャンドラー『湖中の女を訳す』第九章(2)【訳文】 私は横目で彼女を見た。ふわっとふくらませた茶色の髪の下から、思慮深げな黒い瞳がこちらを見ていた。夕闇がとてもゆっくりと迫りつつあった。それはほんのわずかな光の質の変化に過ぎなかった。「こういう事件のとき、警察はいつも疑ってみるものだ」私は言った。「あなたはどうなの?」「私の意見など何の役にも立たない」「そうかもしれないけど、念のため」