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『人間の建設』No.51「近代数学と情緒」 №3〈なぜ、かわいいのか〉

岡 仏教に光明主義というのがありますが、それは中心に如来があって、自分があるというのが始まりで、私はそれが本当だと思っています。全知全能の大宇宙の中心である如来と、なぜ全く無知無能である個人との間に交渉が起こるかということは不思議なことかもしれない。しかし全知全能なものは無知無能な者に、知においても意においても、関心を持たない。情において関心を持っているのです。全知全能のものから見れば、無知無能のものは珍しくて、あわれで、かわいいのではないか、そこで交流が起こるのではないかと思うのです。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 前段で岡さんは数学と情の関係について話しましたが、ここでは仏教の考えに言及します。光明主義、なぜ全能の如来(ほとけ)と無能な個人(ひと)の間に交流が起こるか、仏が人を救済しようとするのはなぜか。

 乱暴かもしれませんが、仏を人に、人を犬猫に置き換えれば理解がしやすいのではないでしょうか。賢いから、役に立つからかわいい、それもあるかもしれません。でも犬猫は、ただただかわいいのですね。

 動物は喋らない、人がすることはできない。あるがままで、それが自然です。人も小賢しく仏のまねなどしない方がよい。パスカルの言葉を思い出します「天使をまねるほど獣のふるまいをすることになる」。

岡 知や意によって人の情を強制できない。これが民主主義の根本の思想だと思いますが、そういうことがわかれば、たとえば漢字をおかしな仕方で制限し、それ以外の字を使って子どもの名前を付けさせないなどということを人に押しつけることもできないはずです。共産主義に合わない学問を認めない国家も同様です。

 岡さんの話は縦横無尽に飛翔していきます。今度は民主主義と漢字制限。情、情意、感情をないがしろにしては民主主義とはいえない、その具体例を挙げます。

 岡さんがやり玉にあげるように、子供の名前を付けることに漢字の制限がありますね。対談当時と今とは少し違ってきているようですが基本は変わりません。岡さん、ご自身のお子さんの命名で不如意を覚えましたか。

 学問に関して認める認めない、は私にはよくわかりませんが、教育に政治的な影響が及ぶことは時々マスコミをにぎわしますから私達の経験上のことかもしれませんね。誰しも情を抜きには納得しないでしょう。

岡 知や意志はいかに説いたって情は納得しない。実際また情が主になって動きませんと、感情意欲が働かない、従って前頭葉が命令するという形式にならない。前頭葉を使い、使いながら強くなるという形式で頭脳も発達してこない。無理に癖をつけるやり方、側頭葉しか働かせない教育、それをしつけと思いちがっているらしいが、いくら厳しくしつけても、自主的に自制力を使う機会を奪い取っているのだから無駄です。

 今度は岡さん、教育やしつけにおける情との関連に話を延べます。理屈や押し付けで心底から人は言うことを聞きはしない。納得させるのが教育の基本だと。

 情意が動いてこそ人は納得するし、納得すれば脳が命令してやる気も起こるし、それが持続するほどに自主性と自制力が働いて強くなる。知と意と情が好循環を生みだすのだ、と読みとりました。

 ご自身の専門領域の数学は元より、仏教において、国において、教育やしつけにおいても、基本となるものは、情からくる納得だと。世界を俯瞰するような視点でもって岡さん、よくぞ語ってくれたものです。

――つづく――

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