見出し画像

『人間の建設』No.39 無明の達人 №3〈「小説」のひみつ〉

小林 ……だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。私は「白痴」の中に出てくる無明だけを書いたのです。レーベジェフとイヴォールギンという将軍を書いたのです。どうしてドストエフスキーがあれほど詳しく、あの馬鹿と嘘つきと卑劣な男を書きたかったか。あんな作品は世界の文学に一つもないと思いまして、それで分析してみたのです。……

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 前回の記事の繰り返しになりますが、小林さんは「自分にわかるものは、実に少ないものではないか」と言い、岡さんも「外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。」と同調しました。

 キリスト教についていえば、私達も知識としてはあるいは教養としては、ある程度知っていると言えるでしょう。キリスト教圏の他の作家の作品を読んだり、聖書そのものを読んだりした方も多いことでしょう。

 知識というものはあるのです。まったく知らないわけではない。では、彼我で何が違うのかといえば「信仰」かなと思います。もちろん日本にも熱心なキリスト教徒は一定数おられるので、それは例外としての話です。

 宗教に対して、信仰のあるなしは、これは決定的なちがいでしょう。日本人が仏教の信仰に熱心か、と聞かれればそうとも言えない感もありますが、葬儀、墓参りとか法事などの仏教上の儀式は、私たちに一般的な行事です。

 これらのことを、外国人に「わかる」かどうか。なかなか困難なことだと思われますね。どれだけグローバル化が進んでも、越えられない隔壁は存在する、これは仕方のないことです。

 それでもなお、小林さんはわかる範囲だけであっても分析し、評論し、著作を世に出してわれわれに明かして見せてくれたのですね。かなたには、作品の山脈がにそびえ立ち、こなたには、評論の湖沼が広がっている。

『白痴』を読み終えたら、つぎは、小林さんの著作を読みたいと思いました。

小林 よくお読みになれば発見なさいましょう。作者は自分の仕事をよく知っていて、隅から隅まで計算して書いております。それをかぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから。
岡 なるほど言われてみますと、わたしはただおもしろくて読んだだけで、批評の目がなかったということがわかります。それを何故好きになったかという自分をいぶかっているのです。なんと言いますか、知情意することに責任を持つか、無責任であるかという根本的なちがいがあって、全く責任を持ちませんから、専門家とは相反しますね……。

同上

‐―つづく――




※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。


最後までお読みいただきありがとうございました。記事が気に入っていただけましたら、「スキ」を押してくだされば幸いです。