『人間の建設』No.39 無明の達人 №3〈「小説」のひみつ〉
前回の記事の繰り返しになりますが、小林さんは「自分にわかるものは、実に少ないものではないか」と言い、岡さんも「外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。」と同調しました。
キリスト教についていえば、私達も知識としてはあるいは教養としては、ある程度知っていると言えるでしょう。キリスト教圏の他の作家の作品を読んだり、聖書そのものを読んだりした方も多いことでしょう。
知識というものはあるのです。まったく知らないわけではない。では、彼我で何が違うのかといえば「信仰」かなと思います。もちろん日本にも熱心なキリスト教徒は一定数おられるので、それは例外としての話です。
宗教に対して、信仰のあるなしは、これは決定的なちがいでしょう。日本人が仏教の信仰に熱心か、と聞かれればそうとも言えない感もありますが、葬儀、墓参りとか法事などの仏教上の儀式は、私たちに一般的な行事です。
これらのことを、外国人に「わかる」かどうか。なかなか困難なことだと思われますね。どれだけグローバル化が進んでも、越えられない隔壁は存在する、これは仕方のないことです。
それでもなお、小林さんはわかる範囲だけであっても分析し、評論し、著作を世に出してわれわれに明かして見せてくれたのですね。かなたには、作品の山脈がにそびえ立ち、こなたには、評論の湖沼が広がっている。
『白痴』を読み終えたら、つぎは、小林さんの著作を読みたいと思いました。
‐―つづく――
※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。
最後までお読みいただきありがとうございました。記事が気に入っていただけましたら、「スキ」を押してくだされば幸いです。