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『人間の建設』No.47 「はじめに言葉」 №2〈安心という目途〉

小林 岡さんは数学を長年やっていらして、こういうふうに行けば安心というような目途がありますか。
岡 家康がこれで安心と思ったような、ああいう安心はありませんね。だからそういう心配もすべきものではないと思っているだけです。
小林 一つ解決すると、その解決がさらに次の疑問を生む。
岡 次の問題をよんで、それが無解決につながるということは幾らでもあります……。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 岡さんが言った「家康の安心」とは、1600(慶長5)年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」を制して征夷大将軍となり天下を統一した時のことをさしているのでしょうか。

 小林さんや岡さんが言うようなことは数学に限らず、日常われわれもよく経験することのように思います。一つ解決すると、次の問題がでてくる。それがなんとか片付いたと思ったらまた、……。

 だから、岡さんが言うように「無解決」ということもあり得るのだと。逆に問題が全部解決するとしたら、もう何もすることがなくなってしまいますね。終わりです。それも困ります。

岡 ……ただ私が始めました頃は、三四十年かかっていろいろな中心的な問題がでてきていた。それを解決しなければ進めないという時期にあった。その頃始めたわけです。それがだんだん解決できていったということです。もうほとんど解決できています。今度は次の新しい問題がわかってこなければ行き詰まるわけで、そういう困難が待ち受けています。いまそこにいるわけです。
小林 しかし後戻りというのはないわけでしょう。
岡 後戻りはしません。
小林 絶対にしない?

 年表によると、岡さんが京都帝国大学(現京都大学)に入学したのが1922年、当初は物理志望、へ~。1924年3年進級時に数学へ登録変更したとあります。始めたころというのは、早めの解釈ならばこのころですね。

 その頃から3、40年というスパンでいろいろな数学上の問題がでてきて、それを解決していく。ほとんど解決できたのがちょうど対談があった60年代真ん中あたりだったのですね。(現代数学がどんな状況か気にはなります)

 すると、手持ち無沙汰になってしまう。次の新しい問題を探さないと数学が行き詰まるというわけですね。何か探検をしているような感じですね。探検隊が失職しないためには新しい秘境が見つからないといけない。

岡 ええ。本当に行き詰まったら、数学というものがなくなるでしょうね。そういう危険性がないということは言えないわけです。だから数学の中だけでは安心できないわけで、やはり人類の文化のひとつとして数学というものがあると言う自覚があれば、心配ないわけです。人類の向上に対して方向があっていると思うようにやればいいので、そこまでいかなければ安心できない、数学至上主義というものはありえません。

 以前の対談の中の、数学と詩の相似で「ない所へつくっていく」という話があったと思います。語呂合わせではないですが「探と発」。数学者・詩人=探検隊という「絵」が私の頭に浮かんで面白いなと思いました。

 ここで岡さんは、数学だけの世界に閉じこもることの危険性を述べています。学問に目的のようなものを持ち込むことが純粋性に反すると思えば、数学至上主義というものがでそうですが、岡さんは否定しています。

 人類の向上や文化というものが数学の目的とまではいわないまでも、同じ方向を向いている必要はある。人類の福祉に反するようなことがない限り、人類も数学も安心立命を謳うことができそう。さぁ、目途がついたようで。



ーーつづく――




※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。


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