『人間の建設』No.47 「はじめに言葉」 №2〈安心という目途〉
岡さんが言った「家康の安心」とは、1600(慶長5)年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」を制して征夷大将軍となり天下を統一した時のことをさしているのでしょうか。
小林さんや岡さんが言うようなことは数学に限らず、日常われわれもよく経験することのように思います。一つ解決すると、次の問題がでてくる。それがなんとか片付いたと思ったらまた、……。
だから、岡さんが言うように「無解決」ということもあり得るのだと。逆に問題が全部解決するとしたら、もう何もすることがなくなってしまいますね。終わりです。それも困ります。
年表によると、岡さんが京都帝国大学(現京都大学)に入学したのが1922年、当初は物理志望、へ~。1924年3年進級時に数学へ登録変更したとあります。始めたころというのは、早めの解釈ならばこのころですね。
その頃から3、40年というスパンでいろいろな数学上の問題がでてきて、それを解決していく。ほとんど解決できたのがちょうど対談があった60年代真ん中あたりだったのですね。(現代数学がどんな状況か気にはなります)
すると、手持ち無沙汰になってしまう。次の新しい問題を探さないと数学が行き詰まるというわけですね。何か探検をしているような感じですね。探検隊が失職しないためには新しい秘境が見つからないといけない。
以前の対談の中の、数学と詩の相似で「ない所へつくっていく」という話があったと思います。語呂合わせではないですが「探検と発見」。数学者・詩人=探検隊という「絵」が私の頭に浮かんで面白いなと思いました。
ここで岡さんは、数学だけの世界に閉じこもることの危険性を述べています。学問に目的のようなものを持ち込むことが純粋性に反すると思えば、数学至上主義というものがでそうですが、岡さんは否定しています。
人類の向上や文化というものが数学の目的とまではいわないまでも、同じ方向を向いている必要はある。人類の福祉に反するようなことがない限り、人類も数学も安心立命を謳うことができそう。さぁ、目途がついたようで。
ーーつづく――
※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。
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