『人間の建設』No.56「素読教育の必要」 №2〈理性の正しい使い方〉(終)
素読の意義について小林さんが力説しています。素読は、音読でもありますね。かつて読書は音読が常識であって、黙読で読むことは、歴史的にはまだ浅い、と聞いたことがあります。
古典は音読に適していて、現代文は黙読に適するようにできてきた。そもそも風土記などは古老の口伝が文字に置き換えられて定着したり、古事記などは口述が文字に置き換えられたものですよね。
中学・高校の国語の授業ではよく古典の暗唱が宿題になったのを思い出します。「奥の細道」「方丈記」「源氏物語」などの冒頭部分ですが、何十年たった今でも覚えていますものね。
先日、「方丈記」の全文を原文で素のまま読みました。思ったよりも短かく感じ、内容も完全とはいえないまでも大略すなおに頭に入ってきました。そのあと読んだ解説文は何倍にもふくらんで面倒くさかったです。
これには冒頭を暗唱していたことが功を奏しましたね。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし……」
川端康成は小説の執筆にあたって、耳で聞いてわかる日本語をこころに置いていたそうです。「それら(「源氏物語」や「枕草子」)の音読が私を少年の甘い哀愁に誘ひこんでくれた」(『新文章読本』)。
むかし、倫理学の本を読んだ時に最も重要な対象は「愛」であるのに現実の倫理学はそうなっていないとの批判がありました。人倫、つまり道徳であり、人があるべき姿を示す学問と倫理学のことを理解しています。
それを、理性の方からアプローチするのではなく、愛の方からアプローチするのが正しいと。岡さんの言うこと、「本当の心(愛)が理性を道具として使えば、正しい使い方だと言います」に通じると思います。
理性には正しい使い方があるが誤った使い方の事例が多い。使う主体は愛であり情である。理性というものは捨てない。どんどん膨らんでいく。理性は飛躍できない。それだけでは世界を知ることが出来ない、というのです。
――おわり――
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