三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」ほか一篇



前書き

戦前の三島の作品は読むのが難しい。結局は筆者の読みたい方向に寄せているだけに思えて不安にもなる。
そのため、筆者は先に作品の方向性を確かめ読んでいる。もし読み間違っていたとき間違いがどこにあったか明白にするためである。

今回、「中世に(略)」及び「エスガイの狩」を扱うが、両作品に通じるのは極めて明晰な文体である。「花ざかりの森」系列に位置する朦朧とした文体ではなく、鋼の板のような文体。
また三島由紀夫本人が「花ざかりの森」と「中世に(略)」を比べ、後者を評価すると発言していたことからも、また筆者の実感としても後の三島作品には(少なくとも表面的には)後者の特徴が強く出ているように思う。

そこで今回、仮に両作品が三島由紀夫の中間里程標である長編「金閣寺」の準備段階に属する作品と仮定して読んでみようと思う。
論理的で明晰な文体を積み重ねることによって、人為的な夢を構築しようとした試みの一環として。

中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃

タイトルが全てで、次々と多様な階級の人々が殺されていく。以下の通り。
室町幕府二十五代将軍足利義鳥→北の方瓏子れいこ乞食こつじき百二十六人→能若衆花若→遊女紫野→肺癆はいろう人(※結核の旧称)

基本的には、死にゆくさなかの人々の美しさが、

足利義鳥「殺された彼の血が辰砂しんしゃのやうに乾いて華麗な繧繝縁うんげんべりをだんだらにする。」
(※辰砂―鉱物の名称。主に日本画で絵具として使われていた。
繧繝縁―畳の縁の文様。天皇や上皇など一部の人間しか使用を許されなかった。)

北の方瓏子「今や、陶器をさながらの白い小さなあごが、闇の底から夕顔の花のやうに浮き出てゐる。」

能若衆花若「その唇はつやゝかに色めきながら揺れやまぬ緋桜の花のやうに痙攣する。」

とアフォリズム風の断片形式で語られているが、二つ特に特色のある下りがあるのでそれぞれ引用したい。

□月□日  [殺人者の散歩]
春のうつくしい一ㇳ日を殺人者はのびやかに散歩する。彼の敬礼は閑雅である。春の森は彼を迎へて輪廻りんねそのものゝやうにざわめいてゐる。小鳥がうたふ、わたしも歌はう、小鳥ようたへ、わたしも歌はう。無遍に誘はれると、そこではうたがうたはれた。

p147.

筆者も書き写して改めて思ったが、この硬質な文体で春の景色を書いたのがいい。これが和文調のふわふわした文で書かれると今ひとつ締まりに欠けるのを、キリキリした文で書いたから、内容(文の内容)とその容れ物(文体)とが互いに緊張し合って、読んでいて刺激が多く楽しい。
(多くの作家は自分の大切なテーマを書くとき、どうしても細かくいたわって書いてしまう。けれど却って読者に打ち出す力が弱まるし、文体と文の内容が干渉し合って過剰に繊細な作品になりかねない。ある程度までは突き放す方が、緊張があって魅力的な文章になるように思う)

殺人者と海賊たちの会話

かなり長いのだが、その難解さと独特の魅力を感じて欲しいので適宜省略しつつ引用する。ただ飛ばしても構わない。

「君は未知へ行くのだね!」(略)
「未知へ?君たちはさふいふのか?俺たちの言葉では(略)―失はれた王国へ。……」
海賊は飛ぶのだ。(略)俺たちには限界がない。俺たちには過程がないのだ。俺たちが不可能をもたぬといふことは可能をももたぬといふことである。
(略)
海をこえて海賊はいつでもそこへ帰る(「帰る」に強調点)のである。(略)俺たちは無他だ。(略)生れながらに普遍が俺たちに属してゐる。(略)想像も発見も、「恒に在つた」にすぎないのだ。恒にあつた。―さうして無遍在にそれはあるであらう。
未知とは失はれたことだ。俺たちは無他だから。
殺人者よ、花のやうに全けきものに窒息するな。海こそは、そして海だけが、海賊たちを無他にする。(略)強いことはよいものだ。弱者は帰りえない。強いものは失ひうる。弱者は失はすだけである。向うの世界が彼等の目には看過される。
(略)俺たちもまた、八幡の神にぬさを手向けて祈るのである。俺たちの祈りは、既存への、既定への祈りである。何ゆゑの祈りだといふのか。無他なるものゝ祈りはいつもかうなのだ。
(略)玲瓏れいろうたる青海波に宇宙が影を落すとき、その影は既にあつたのだ。
(略)紺碧の海峡のうしほの底を青白いふかの群が真珠母をゆらめかせて通つた。八幡の旗かげにはいくたびか死が宿つたが、南の島々から吹く豊醇な季節風がすぐさまそれをはらふのであつた。
(略)
殺人者は黙つていた。とめどもなく涙がはふり落ちた。
他者との距離。それから彼はのがれえない。距離がまづそこにある。(略)
(略)
花が咲くとは何。秋のすがれゆく日ざしのなかで日ましにうつろひつゝある一輪の菊が、なぜ全けく、なぜ輪郭をもつのか。なぜそれは動かしがたいか。なぜそれは崩壊の可能性に満ちてゐるか。そして、なぜそれは久遠でありうるか。
海賊に向って、限界なきところに久遠はないのだ。と言つてみたとて何にならう。ために殺人者の涙は拭はれはせぬ。そんなことでは拭はれない。
(略)

p151.〜153.

極めて難解なのが分かると思う。こういうのは平野啓一郎氏に解説してもらいたいものだが、ギャラも出せないので筆者で我慢してもらう。
基本的には「無他」の海賊と「他者との距離」を持つ殺人者が対照的に書かれている理解でいいだろう。

海賊たちについて。
もしこの世のすべてが思うままであるなら―不可能がなければ―可能もない。さながら夏に生まれ死ぬ蝉が季節を知らないのと同じである。
また、彼らは久遠も持たない。何もかもが永遠の下にあるなら、永遠もない。
それはある意味で幸福(も不幸も海賊たちにはないのだろうが)な世界だが、しかしなお疎外者がいる―それが殺人者だろう。

また、この前に出てくる「げに殺すとは知ると似てゐる(「殺す」及び「知る」に強調点)」という本文の言葉をもう少し散文的に言い直すなら、私たちは世界の一回性を殺すことで言語を使用し生きている。目の前の野原のシロツメクサのすべてが別々の存在だと信じる人間に言葉は使えない。事物の個別性を圧殺することで言葉は―その体系としての知識は―生じている。

だから仮に一つの読みを提出するなら、海賊は詩人、殺人者は小説家でなかろうか。それは言葉に対するスタンスの違いと呼べる。
言葉の暴力的な反復性を再び一回性に戻す幸福な天命に従事できる詩人と、暴力的な反復性を呑んで作品を産み続ける作家の違い。

何を言ってもそれらしくなるし、知ったかぶるのも嫌なのでこのあたりで切るが、海賊の下りは殺人者の日記では最も長く、本作の中核であるのは間違いないはずだ。
新潮文庫で読める、諸氏はもう少しまともな読み方をしてほしい。

エスガイの狩

聞き慣れない「エスガイ」という名は也速該エスガイ成吉思汗ジンギスカンの父である。
そのエスガイが二人の兄と「オルクヌートの民の無双の麗人、ホエルンを」攫って后にするまでの顛末を書いた本作は、むしろ前半の、物語としては余剰に当たる箇所の緊密な論理が印象に残る。

はじめて彼(筆者注:エスガイ)は可能性を己が所有(「所有」に強調点)とした。(略)エスガイは輪へ踏み入ることにより、真に輪の外へ出るのではないか。(略)はじめて彼には、輪を出(「出」に強調点)ること、即ち対象への投身が可能になる筈である。

p212.

ここでは、ひたすらこの哲学的な文体の論理の酔いに身を預ければよいと思う。
また、本作では以下の描写が美しい。

泉ばかりがしずかな明るさを持つ。池の真中まんなかに、砕ける百合のやうにあふれてゐる。

p218.


まとめ

両作の緊密な論理は、たとえば「金閣寺」の

あるとき私は(略)小輪の黄いろい夏菊の花を、蜂がおとなうさまを見ていたことがある。光の遍満のうちを金いろの羽を鳴らして飛んできた蜜蜂は、数多い夏菊の花から一つを選んで、その前でしばらくたゆとうた。
(略)そうだ、それは確乎かっこたる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、あふれるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望にふさわしいものになっていた。(略)今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。(略)
私はほとんど光りと、光りの下に行われているこの営みとに眩暈めまいを感じた。(略)

p168.169.

以下のような箇所へ続くものではないかと思う。にしても小説を書くのに死ぬほど不向きな文体である。普通こんな文章で長編を書いたら作品が停滞して、まず途中で座礁するものだが。
(これに匹敵するのは大江健三郎氏の「万延元年のフットボール」の書き出しだろうか。あれも正気の沙汰ではない)


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