三島由紀夫『微妙な』短編感想
「みのもの月」三島由紀夫19歳の作品。男と女の別れ話だが、とても成功した作品とは呼べない。
平安文学とは女房文学と呼ばれるし、この連綿と続く文体はなるほど、その平安文学に倣った「たをやめぶり」の追求と見てよいが、それなら堀辰雄の「かげろうの日記」及び「ほととぎす」を読んだほうが時間の節約になる。
三島のすでに批評性を孕む文体は、平安王朝特有の「優美なくだくだしさ」と相性が悪い。
一方で堀辰雄の情緒に流れるきらいは、ここでは形式性に守られ効果を発揮している。
「山羊の首」。一人の色男が、ある日百姓娘とセックスをしているとき、少年たちが食べた跡の山羊の首を見てから女に熱意を感じられなくなる。
その後香村夫人の忘れた手袋を片方届け彼女と関係を持ち、彼は山羊の首の呪縛から逃れるのだが、彼女は彼の金を奪い逃げる。
作品のテーマは「意味の不在」。金閣寺でも同じことが起きていた。
彼は無意味さゆえに女と関係を持てない―生きることができない。「生」とはその本質において無意味なものだから。
また「自分にとっての意味のなさ」が=「世界の意味のなさ」に反転する怖さは「雨の中の噴水」に共通する。
なお、三島の嫌った太宰治の「トカトントン」とも似ている。
「大臣」。俗物の財務大臣を囲む様々な人間と当の大臣の話。大臣が就任演説にこっそり関係を持った女の名前を盛り込むところだけ面白い。
「牡丹」の、南京大虐殺の際、五百八十人の女を自ら殺した後その数だけの牡丹を育てることで己の悪を誇る川又老人とつながるか。
「花山院」。確か学習院時代の三島が書いた短編のリメイク。
元々の短編は死ぬほど読みづらい。「帝」という主語を用いることを三島が(気取りから)嫌ったため、文の主体が誰かわからなくなるのだ。
幸い、この「花山院」は三島がだいぶ大きくなってスレてから書いたので、普通に主語がある。ただ別にそれほどの作品ではない。
「日曜日」。のんきな恋人たちの話。日本には昔「レジャーブーム」があって、その上っ面な繁栄に対する三島の憎しみが現れた短編。
と、いうことで小説の最後には幸男と秀子―恋人たちは(三島によって)電車にひかれ、死ぬ。
なお、首が「砂利の上にきれいに並んでいた」ことに、プラットホームの人々が「運転手のふしぎな腕前を讃美したい気持になった」とあるが、どう考えてもおかしい。普通にパニックになる。
ここで恋人たち―ひいては戦後日本の繁栄―を殺して喜んでいるのは、作者三島なのだろう。
※性的な話があります
「偉大な姉妹」。体のでかい老姉妹は明治の伝統を引きずり、今ではただひたすら老人の醜さをさらしている……そんな話。
で、興造という孫息子がめちゃくちゃ不良。あだ名は「リンカーン」(輪姦が由来)、友達とグルで女生徒をレイプしようとして失敗、あげくには教師をナイフで切りつけて退学かまだしも長期停学か、というところまで追い込まれる。
この姉妹と孫の思惑が見事にすれ違うのは、低俗で残酷な面白さになっている。
すぐ他の作家の名を出すのは私の悪い癖だが、筒井康隆ならもっと徹底して書けたはずだ。しかし、三島は根っこが真面目である。阿頼耶識である。と、いうことで話はしりすぼみに終わる。突き詰めれば通俗的で横柄な二級品の傑作になってたと思うのだが。
「朝顔」。三島の「怪談」として「仲間」とともによく聞く短編。
「妹に会ったが、実は幽霊でした」それだけの話だが三島の妹に対する愛おしさが出ている(本当にいたのだったか)。
「施餓鬼舟」。老年の作家が息子相手に己について語る……そんな話。つまらない。
なぜかというに、この「父」と「老い」がまるで深堀りされていない。
百歩譲って観念小説として読むにせよ、「芸術/人生」の対比はあまりにも陳腐で中身がない。
「遠乗会」。昔求婚された「由利将軍」を思い続ける「葛城夫人」の話。
だが「由利将軍」はとんだ俗物。「想像が現実より美しい」の裏返しにある、現実の退屈さ、無味乾燥さが出ている短編。
※性的な話があります
「新聞紙」。とあるパーティで生まれた子どもは新聞紙に包まれていた。その子どものかわいそうな境遇に思いを馳せる敏子は新聞紙を布団代わりに眠るホームレスに手を掴まれても「『おや、もう二十年たったのだわ』」―つまり子どもが成長したというファンタジーとしか思わない。
「皇居の森は真黒に静まり返っている。」
―このあと敏子はレイプされるのではないか。ただもしそうだとするなら、この話は残酷に過ぎる。ので、筆者の読みすぎと思いたい。