三島由紀夫「接吻」「伝説」
当記事で扱う作品は「接吻」「伝説」の二篇。三島の柔らかな部分が特によく出た作品群である。
特に「伝説」は、読むたび心がふわりと明るくなる。よければそこだけでも読んでくれると嬉しい。
接吻
かなたの丘に新月ぞ沈む。
君のややに笑める唇の形して。
君の唇は森のあなたに笑ひてあり。
丘の上なる森のあなたに。
まばらなる森はレエスの扇さながら。
君の笑める唇を透かしてあり。
扇は……
「一体この詩人は何を考へてゐるのだらう。」
自然なユーモアから始まる本作は、読む限りこんな話だ。
「心優しいヘボ詩人Aがあるお嬢さんに告白し、キスしようとするもほろ苦い土産と引き換えに失敗する……」
お嬢さんは「たくさんの男友達を持つてゐ」る自称絵描きで、「灯りの下でしか画を描かない変つた癖があつた。」そして「身も心も純潔なお嬢さんであつた。」
一方詩人Aは失敗を重ねる。まずお嬢さんが果物の山を描いているのに、
「せめて林檎と梨ぐらゐにしたらどうです。これぢや果物屋の広告になつてしまふ」
など茶々を入れたのがよくない。
これで「急に望みのない弱気な気分になつてしまつた」彼にお嬢さんはとどめを刺す。
「だまつて見ていらつしやいヘボ詩人。あなたの詩は葬儀屋の広告にもならないわよ」
「こんな残酷なやつつけ方を」されては、告白のムードは火葬場直行である。
結局詩人Aは「詩が……詩がね、どうもうまく書けないもので」と言ってバツの悪さをごまかす。
それから彼にしては大胆な告白をする。
「いや、あのね。僕はそれをほしいんだよ、その筆」
せがまれたお嬢さんは「一寸困るなあ。……まあ、いいや、ほしければあげるわ」と困惑しつつも了承し、詩人Aは告白未遂の苦みと引き換えに「彼女が唇をなぜた紅い絵筆をもらつて、月の傾きかけた道を一人でとぼとばかへ」る羽目になる。
そして素敵な結末。
「お嬢さん方、詩人とお附き合ひなさい。何故つて詩人ほど安全な人種はありませんから」
「イソップ物語の例の教訓に似たもの」がついて終わり。
伝説
「青年が語り出した―」幼年期の思い出。
彼は沖を行く船を見ながら物思いにふける―
あの船にこそ、僕が一生に一度めぐり合ひ、心と体をささげ合ふ女が乗つてゐるのだ。あの船に乗つてゐさえすれば、僕はその人と会つてゐたのだ。その人ともう一生離れることはなかつたのだ。
他愛もないと笑われるような青年の話を、
(略)少女はしづかな神秘めいた様子で聞いてゐた。編んだ髪を胸の方へ垂らして、昔の少女が胸の十字架に触れたやうに、それにそつと手を触れてゐた。そして不意に、愕きと喜びとが篝火のやうにそのなかにもえてゐる黒いまばゆい瞳で青年をみつめて語り出した。
実は彼女も、「船が出るときから、(略)泣き出して泣き止まなかつた」子供の頃の思い出がある。
「おうちはどこ?」と泣いたのは彼女がまだ「言葉を知らなかつた」せいで、本当は「港に取残された貴方(※青年のこと)にお会ひ出来なかつたことが、ふしぎな力で、」彼女を泣かせていた―
―「十三年たつて、かうして僕たちは会つたわけですね」
青年は質朴な厚みのある掌に、少女の百合のやうな掌をとつて叫んだ。
「ほんたうに伝説のやうですわ」
(略)
「でも、これで伝説は終つてしまひましたのね。私たちは伝説を作り終へてしまひましたのね。お会ひしないでゐたら永久につづいた伝説を」
「いや、まだ終つてゐはしない」
(略)
青年はいきなり少女の体を抱きしめて、鹿のやうな素直な背をやさしく撫でながら耳もとでささやいた。
「かうすればよいのです」
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