三島由紀夫「哲学」

前半部

宮川という男はひどい「無感動」、洒落て言えば「ニル・アドミラリ」の体現者であり、哲学だけに打ち込む「勤勉な学生」である。
そんな彼の「心胆をはじめて寒からしめ」たのは、「胸の高さぐらゐある屋上の囲ひの上へ(略)とび上つて、幅一二尺(※30〜60cm)のところを両手をとびのやうにひろげて平衡をとりながら渡りはじめた」「命しらずな女学生」の姿だった。
後日彼は女学生に直々、「(略)あの危い真似を明日から止めてくれませんか。(略)」と申し出、それは聞き入れられる。

後半部

「ところが又三日のち」宮川は女学生が「瀟洒せうしやな歩き方をする青年」と歩いている現場を見てしまう。彼はシッチャカメッチャカな手紙―「(略)私の危険なる小鳩へ。―宮川」というこの書き終わりからも伺えるかと思う―を送りつけ、彼女の死を望み、「俺は彼女のあらゆる生から来るあらゆる苦痛に対して不感症になつたのだ。……」と虚勢を張るが、
「彼女の死を選択したことは、よく考へてみると、俺自身の死を選択したことでもあったのだ。人生よ、さらば!」
そしてまたもや皮肉なオチ。
「―つまりこれが失恋自殺といふ奴である。」

ストーカー(あまり読む意義のない感想)

さて、正直かなり怖い小説である。この宮川はそのままストーカーではないか。

筆者も高校のとき、同級生に夜道で待ち構えられていたときは死を覚悟した(ミステリー小説が好きなごく普通の人と思っていたのだが)。
男性の肉体は暴力性を否応なしに秘めている。だが多くの男性は(私もまた)それに無自覚である。
いい加減小説の話に戻ると、女学生は宮川が死んでほっとしたのではなかろうか。

一度、加害/被害の関係性に入り込んでしまえば、もう人間と人間の交流は完全に絶たれる。謝罪や反省など役にも立たない―完全に関係を断つのが唯一の解決策である。だから加害行為はしてはならない。加害者である自分自身と被害者である他者を等しく人間の領域から引きずり下ろす行為なのだから。


筆者の個人的な怨恨話に終始してしまったが、改めて「婦徳」「接吻」「白鳥」「哲学」と、こうした皮肉なコントからその後の三島文学の諸作品は作り出されていったのだと思った。
だがその背後には「伝説」に代表される、ある柔らかなものが―偽の抒情に過ぎないとしても―いつもある。
それぞれ一つ二つ前の記事で扱った、読んでくれると嬉しい。

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