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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜㉑ 『元町・中華街』

 横浜で一つ仕事を終わらせたあと、時間に余裕があったので、わたしは、思いきって中華街へと足をのばした。 

 JR根岸線に乗り、石川町へ。 

 改札をぬけて広がる光景は、あの頃からすっかり変わっていた。けれども、風に乗って漂ってくるこの町の香りは、ちっとも変わっていなかった。そのことが、わたしの胸を締めつけた。嗅覚とはなぜ、こうも深く、我々の感情に訴えかけてくるのだろう。 

 わたしは本当に若かった。 

 若さを失いつつある今だからこそ、あるいはそんな感傷に浸っているだけなのかもしれない。 

 この町でわたしは、燃えるような恋をした。 

 ありきたりな表現だってことは分かっている。けど、それは、そうとしか形容の出来ない恋だった。一生で一度きり。多分、あと三百年生きたって、わたしはあんな風に誰かを愛することはできないだろうし、あんな風に愛されることはきっとない。 

 彼との関係が終わってしまったのは、誰のせいでもないし、何のせいでもない。なにか原因を一つあげるとするならば、それは、わたしたちが若すぎたから、ということなんだろう。若さを燃料にして、わたしたちはあの恋を燃え上がらせ、灰にしてしまった。 


 中華街の街並みは、知っているお店がなくなっていたり、知らないお店ができていたりしたけれど、街全体の雰囲気としては変わらぬままだった。大きな通りから一つ小道に入ったところに、その店はかつてと同じようにあった。「オンリー・ワン」というカフェバーで、中華街には似つかわしくない、アメリカンダイナーのような内装の店だ。白黒タイルの床、真っ赤なビニール張りのスツール、バドワイザーのネオン管、それにジュークボックス。中国人の王さんが経営しているお店なので「オンリー・ワン」という名前なのだと、王さん本人が言っていた。 

 わたしは店の中に入ってみる。 

 カウンターの中でお茶を淹れていた王さんは、わたしに気づいて指を差して「あ!」と声をあげた。 

「久しぶりね! 元気?」 

「王さん、わたしのこと覚えててくれたんだ」

「もちろん。私、美人忘れない。ジャスミンティーでいい?」 

「うん」わたしは嬉しくて笑顔で答える。 

 お茶を待つ間、ジュークボックスを見に行った。曲のラインナップもあの頃のままだった。わたしたちはよくここで、ウイスキーコークを飲み、ソウルミュージックをかけて踊った。わたしたちの踊りはちょっとした見ものだった。わたしはポニーテールを振り乱し踊った。そうだった、あの頃わたしはポニーテールが自慢だったんだ。その自慢のポニーテールは、彼と別れた次の日、ばっさり切り落としたんだっけ。 

「王さん、これまだ動くの?」 

「もちろん」 

 わたしはジュークボックスに硬貨を入れ、オーティス・レディングの曲をリクエストした。 

 ジャスミンティーを飲みながら曲を聞いた。彼がくれた物で、いまでもわたしの手元に残っている物がある。それはオーティス・レディングのレコードで、わたしの誕生日にくれた物だ。サイン入りだぞ、と彼は言って包みから出した。ジャケットに油性マジックで、わたしの名前が宛名書きされてあって、その下にでかでかと「オーティス・レディング」とカタカナで署名してあった。彼もわたしも大笑いした。そのレコードをずっと捨てられずに持っている。 

 そんな馬鹿な冗談で笑ってばかりいたわたしたちだったけど、この日々が永遠に続かないってことを二人ともどこかで感じていた。 

 バンドマンとして、彼が一歩、夢に近づくたびに、わたしと彼は離れていくような、そんな気がしていた。わたしは彼に、生き方を変えてほしかったわけではない。それどころか、わたしは彼の生き方が好きだった。ただ、素直になれなかった。それは彼も同じで、だからわたしたちはぶつかりあった。 

 やがて彼がミュージシャンとして名を馳せ、若者からカリスマとして崇められるようになっても、わたしは彼の曲を聞くことが出来なかったし、この街を遠ざけていた。あの恋を心の奥底に、隠すようにして、押し込んでしまっていた。そのことがいつまでも、指先のささくれのようにわたしの胸に引っ掛かっていた。 

 でも今日、こうしてあの頃の思い出とちゃんと向き合ってみて、ようやく分かった。 

 わたしは後悔していないし、あの恋を誇りに思っているんだって。 

「ねえ、王さん、わたしと彼って、イケてたよね」 

 王さんは首を大きく上下させた。それからわたしを指差してこう言った。 

「でもあなた、今の方が綺麗ね」 

「本当?」 

「私、お世辞言わない」 

「ありがとう」 

 冷めきったジャスミンティーの表面に浮かんだ自分と目を合わせてから、わたしはそれを飲み干した。 


 晴れがましい気持ちで「オンリー・ワン」を出て、もうすこしだけ、中華街を歩いてみる。徐々にネオンが灯りはじめ、街は今、夜の装いに変わっていく所だった。 

 わたしは、あの頃にはなかった、みなとみらい線の「元町・中華街駅」への降り口を見つけ、はじめて乗ってみることを思い立ち、大勢の人が昇ってくる流れに逆らって、階段を降りて行った。



・曲 矢沢永吉「チャイナタウン」


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが僕の書いたショートストーリーを朗読してくれています。
上記は5月26日放送回の朗読原稿です。

矢沢永吉さんの「チャイナタウン」の歌詞をモチーフに書いたおはなしです。いつもとは趣向を変えて、歌詞に出てくる「お前」の側から書いてみました。

来週も朗読ありますのでよろしければ聞いてみてください。

朗読動画も公開中です。

SKYWAVE FMは下記サイトで聞けます。


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