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#1 新聞記者がサウンドエンジニアを目指した理由(上)

 皆さま、はじめまして。ご覧くださいまして誠にありがとうございます。ABE Sound Studio(エービーイー・サウンド・スタジオ)と申します。
個人スタジオでレコーディング、ミキシング、マスタリングの駆け出しエンジニアとして活動しております。

 このたび初投稿ということで、私がどんな人間なのかを知っていただくためにも、なぜ私がサウンドエンジニアを目指すに至ったのかについてご説明いたしたいと思います。

 長くなりますが、うそ偽りのない裸の自分をさらけ出し、本当に思っていることしか書きませんので、どうか最後までお付き合いいただけますと幸いです。

もともとは新聞記者

 私は地方の新聞社で記者をしていました。担当は主に行政。自治体が行う事業や予算の使われ方を検証し、その内容や意義を伝えたり、私たちが納める税金がムダに使われていないかなどをチェックしたりする仕事です。

 たとえば、自治体が管理する道路の管理方法の不備を報じたことで改善につながり、従来より維持費が年間1千万円近く下がったこともありました。報道がきっかけで社会がより良い方向に進む。税金の使い道をただすという仕事に誇りとやりがいを感じていました

 一方、マスコミは嫌われ者であることも事実です。行政の主な取材先は公務員。彼らからすれば、マスコミは自分たちが進めようとする政策に、余計な口出しをしてくる嫌な奴でしかないわけです。もちろん丁寧に対応してくれる方も多くいましたし、こちらもいかに深い情報を取ってくるかが仕事ですから、夜の酒席に付き合ってもらえる取材先も複数いました。

 ただ、それはあくまで建前上のスタンス。センシティブな取材では、肝心なことを答えずはぐらかされたり、居留守を使われたりで会ってくれないこともありました。にもかかわらず、いざ紙面に掲載したら、やれ「あんなことは言っていない」、やれ「なんで書きやがったんだ。もう会わないからな」だのと、朝からクレームの電話で叩き起こされます。

音楽が心のよりどころだった

 そんな日々ですからストレスもたまります。頭では分かってはいながらも、取材先に冷たくされると良い気分ではありませんし、時にメンタルもやられます。かといって情報が取れないとデスクやキャップから詰められます。鬱(うつ)になって休職する同僚もいました。まぁ私が公務員だったら、マスコミとは積極的に関わらないかもしれませんが(笑)

 精神的につらいとき、私を救ってくれたのが音楽でした。その歌手にしか表現できない声や歌詞、メロディーに、心の中に眠る「感動のツボ」を刺激され、勇気づけられた思い出は数え切れないほどです。仕事で大きな失敗をして死にたくなったときも、自然と頭の中にメロディーが流れ、「自分には大事にしている音楽があるんやから生き続けないと」と言い聞かせるようにして自身を奮い立たせてきたものです。

 こうした経験を日々積み重ねるにつれ、「純粋に人を感動させることってなんて素晴らしいんだろう。音を自在に操り、それを仕事にできれば面白いだろうな」と思うようになりました。もちろん記者もやりがいはありますし、社会に必要な仕事だとは思いますが、記事を掲載したからといって100人中100人が喜んでくれるわけではありませんし、社の編集方針に従わざる得なかったりなど、想像以上に自分の力だけではどうにもできない利害関係の狭間に立たされます。多かれ少なかれ、会社員の方はそうだと思うのですが、「これは自分100%の仕事なんだ」と胸を張って言い切れないところに葛藤がありました

 サウンドエンジニアを目指したのは、こうした心境の変化があったからではあるのですが、もっと大事な原点はそれ以前にさかのぼります。ここから先はやや本題から外れるようですが、その原点について詳しくお話したいと思います。

ギターに触れた学生時代

 私が聴くのは、シンセサイザーやボカロを多用した現代音楽ではなく、昔懐かしいフォークソング。 その端緒は、少年野球をやっていた小学生時代にさかのぼります。父が運転する車でグラウンドに向かう途中、車中のラジオから流れていたのが、フォークソングの数々。美しいコーラスの歌声やアコースティックギターの柔らかい音色が響き、なんとも言えない心地よい時間が流れていたことを覚えています。

 とはいっても、私に音楽経験はまったくありませんでした。ピアノを習ったことはおろか、楽譜はもちろん音符も読めません。小・中学校の合唱時にピアノを奏でていた同級生をうらやましく思っていたものです。音楽は「幼少期からの素養が必要で、自分には手の届かないあこがれの世界なんだ」という認識でした。

 やがて大学生となり、都内の風呂なしアパートに下宿していた20歳のころ、同じ下宿先にいた兄がギターを手に私の部屋にやって来ました。たしかビートルズだったでしょうか。ぎこちない手つきながらも「Let it Be」や「Huy Jude」を弾き語ってくれました。

 そのとき兄が教えてくれたのが、「コード」という存在。歌詞が書かれた紙を見せてもらうと、歌詞の下にCやAなど見慣れないアルファベットが並んでいました。聞けば、アルファベットごとにギターの弦を押さえる位置が決まっているのだとか。私は「へぇ!こんな風にして曲は作られているのか!」と気分が高揚したことを覚えています。

 「ギターをやってみたい!」という思いに駆られ、後日、日本有数の楽器街・お茶の水を訪れました。とはいっても私は当時、コンビニでバイトをしている貧乏学生。楽器屋の店内には数十万円もするギターがずらりと並び、「ギターってこんなに高いのか」と驚きました。結局、店員さんに「初心者向けのギターはどれですか?」と聞いて紹介してくれた9800円のギターを買うことにしました。

 「よっしゃ。これで好きな曲を弾きまくれるぞ!」と意気込んだものの、Fコードがうまく押さえられないわ、買った楽譜を開いても♭やdimだの見たこともない記号だらけで理解できないわ、おまけに譜面に書かれているコードがどう考えても原曲と違うわで、すぐ挫折してしまいました。

(※安物のギターは弦高がきちんと調整されていないことが多く弾きづらいため、初心者こそきちんとしたギターを買うことが大事なのだと後に知りました…)

 「もともと素養がないのだから、音楽理論を勉強して基礎を固めなければ」と、大学近くの本屋でそれらしき書籍をひもといてみたこともありましたが、当然ながら何が書かれているかわかりませんでした。

興味本位で投稿した「歌ってみた」 

 こうした経緯でギターはいったん放り出したものの(笑)、歌うことは大好きだったですね。楽器は弾けませんでしたが、ギターやピアノ、ベースを頭の中で鳴らしながら、歌のピッチやリズムがずれていないかを確かめていました。私は一人カラオケは絶対しないのですが、ゼミの友達からのお誘いでみんなでカラオケに行くことはよくありました。

 ちょうどその頃、同じゼミ友でアナウンサー志望のイケメン同級生が私に、「テレビ局のカラオケコンテストに一緒に応募しないか」と声を掛けてきました。大学近くの公園で何度か二人で練習したのち収録に臨みましたが、当然ながらレコーディングの知識もあるはずもないので、カラオケのテーブルに数千円のICレコーダーを置いて録音するあり様でした(笑)。応募結果はご想像にお任せしたいと思います…。

 しかし、その経験で得られた副産物があります。コンテスト挑戦に際し、私は一念発起し、挫折していたギターを再開することにしたのです。「まずは一曲をきちんと弾き語りできるようになろう」という目標で選んだのが、シンガーソングライターの小田和正さんの「woh woh」という曲。小田さんの楽曲は難解なイメージがあったのですが、この曲はコード進行もシンプルで、単音を一つずつ鳴らすアルペジオ奏法だったので、私のようなギター挫折者でも頑張れば弾けるようになるんじゃないかと思ったからです。

 悪戦苦闘しながらも、約1カ月の猛練習を経てなんとか弾けるようになりました。前回の反省を踏まえ、なけなしの金を投資してギターも新調し、マイクやアンプも安物ですがそろえました。そしてゼミ友を自宅に招き、お披露目会を開いたところ、思った以上に高評価をいただきました。調子に乗って代々木公園でもライブ演奏やったのですが、見向きもされませんでした…(笑)。

 この時、ゼミ友の一人が何気なく言いました。「youtubeとかに投稿したら面白いんじゃない」。当時は2010年で、今ほど動画投稿が盛んでなかったと思います。私もyoutubeは見て楽しむもので、自分が投稿するものとは思ってもいませんでした。一方、「ネットで自分の作品が見られたら、どんな反響があるのかな」という好奇心はありました。結局、友人の一言に押され、その年の10月、人生初の動画投稿を行いました。いわゆる「歌ってみた」です。

 その動画がこちらです。今聴いてみると、音質はもちろん演奏もひどすぎて、お恥ずかしい限りなのですが…。しかし、この動画投稿が後々、私の音楽に対する認識を変えることになるとは当時は思いもよりませんでした

     ⇨ #2 新聞記者がサウンドエンジニアを目指した理由(中)

 

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