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#2 新聞記者がサウンドエンジニアを目指した理由(中)

予想だにしなかった反響

 興味本位で投稿した一本の歌ってみた。ただ、そこは億単位の数の動画がひしめくYouTubeの世界。「自分の動画なんて見向きもされないだろう」。とはいってもどんな反応があるのか気になり、投稿後しばらくは動画を確認していましたが、再生数は1日当たりでせいぜい数回程度、というかゼロの日の方が多かったです(笑)。「あぁ、やっぱりこんなものか」。それ以降は動画を見返すことはなく放置したままでした。

 しかし、思わぬ反響が待っていました。投稿から2カ月ほどがたったころでしょうか。ゼミの友人から「おい、○(私の名前)ちゃん、この前の動画の再生数がすごいことになってるぜ!」と連絡が入りました。慌てて確認すると、目に飛び込んできたのは3万回を超える数字。「動画ってこんなに多くの人に見られるものなのか!」と驚きました。その後も再生数は伸び続け、このブログを投稿した2021年7月20日現在で24万6300回、高評価の数も280に達しています。

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音楽の力を肌で感じた

 ただ、再生数以上に感動したことがありました。動画に寄せていただいた視聴者の方々のメッセージです画像とともに一部を引用し、以下ご紹介します。

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「やはり生の弾き語りはいろいろなものが伝わりますね。ありがとう」
「素晴らしい歌声でした。力をいただきました」
「とても…とても…胸がジンと熱くなります」
「最後まで聴かせていただきました……」

 貧乏学生がなけなしの金をはたいて買った楽器やマイク、アンプ、レコーダーはお世辞にも良質のものとは言えませんでしたが、「下手くそなギターと歌だけで一度も会ったこともない人の気持ちを、こんなに温かくすることができるんだ。音楽の力ってすごいなぁ」と本当に心から思いましたですね。数々のメッセージをくださり、逆に私が心をゆさぶられるような経験をさせていただきました。これらは私の一生の宝です。その後も、動画は音楽に関する記事を書いているブロガーさんのページでも取り上げていただきました。

暗黒時代だった私の就活

 そうこうするうち大学生活も後半に入り、就活シーズンがやってきます。これを機にせっかく買った機材をすべて手放すことに。就活に集中するためです。しかし、ここから長い苦難の道のりが始まります。

 当時、私はマスコミ志望でした。ですが周りの同級生がマスコミ含め一流企業の内定を次々と獲得する中、私だけはトントン拍子にはいきません。最終面接まで進んだ会社も複数ありましたが、どうしても最後の壁が突破できず悔しい思いをしました。

 結果、20人余りのゼミ生の中で私だけが唯一、「無い内定」となりました。つまり無職です。先行きが見えず悶々とする中、とうとうある日の夜中、胸が張り裂けるように苦しくなりました。たまらず寝ていた兄の部屋に駆け込み、「俺、どうすればいいのだろう。これまでの過ごし方が悪かったせいだ」と泣きついたことは忘れられません。

 卒業を間近に控えた最後のゼミの飲み会でもみじめなもんでした。ゼミを指導していた先生から「君はまず社会に出て働いた方がいい」と言われたことがなんとも意味深く、今でも頭に残っています。

 結局、留年という形で半年間、就職浪人しましたが、それでも志望していたマスコミの内定は得られず、かろうじて拾ってもらえた地方の中堅スーパーに就職することになりました。24歳になっていました。

劣等感に打ちひしがれ、自分を見失った20代

 学生時代を過ごした東京を離れ、見知らぬ土地での社会人生活。私は料理が好きでしたので、包丁技術を磨きたいと鮮魚部への配属を希望しました。1カ月間の社員研修ののち、晴れて鮮魚部に配属されたものの、待っていたのは厳しい職人の世界でした。

 私が配属されたのは、人口2千人ほどの町にたたずむ小規模店舗。魚屋の朝は早く、朝6時すぎには鮮魚の仕込み(加工)を始める日々。指導役は「おれ中卒だから」が口癖の30代上司。商品の搬入や仕込みでもたついていると、容赦なく怒鳴り、砥石が飛んできたこともありました。私はありませんでしたが、高級魚の仕込みに失敗した中年の契約社員の方は裏で魚を買い取らされていました。今では考えられないですよね(笑)。夜も遅くまで冷蔵庫や冷凍庫の片付けをやる日々でした。

 特売セールを打ち出す土日はとりわけ忙しく、ピークとなる大晦日は前日からほぼ泊まりがけで、当日も朝5時から寿司用の魚を仕込んでいました。ようやく山を越えたかと思いきや、スーパーですから定休日はありません。紅白歌合戦や箱根駅伝を楽しむ余裕などなく、正月も元旦から働いていましたね。

 馬車馬のように働いていたにもかかわらず、残業時間は改ざんされ、残業代もすずめの涙ほど。給料も大卒平均の初任給をはるかに下回る安さで、ボーナスも出ない年もありました。いわゆるブラック企業だと気づいたときには後の祭りでした。情けなくて、恥ずかしくて、家族を含め周りに自分の給料はおろか、仕事のことすら言えなかったですね。よく食べに行っていた近所の洋食店のシェフから「そういえばお仕事は何をされているのですか」と聞かれた際、すぐに言葉が出ず「あのぅ、販売の仕事をしています」とたどたどしく答えたのは苦い思い出ですね。自分の仕事に誇りを持てなかったことが何よりつらかったです。入社から2年が過ぎていましたが、30人近くいた同期は半分近くまで減っていました。

 縁あって新しい世界に飛び込んだのに、ブラック企業の現実を思い知った私は徐々に気持ちがふさぎ込んでいきました。たまの休日に電話でおしゃべりしている友人から「今度10連休だからスペインに遊び行くぜ」「ボーナス三桁近くてびっくりした」といった話を聞くたび、「一流企業はやっぱり違うなぁ」とうらやましさと悲しみが入り混じった複雑な気分になりました。

 こうなってくると、もう卑屈になってくるんですよ。「俺は頭が悪いからこんな会社にしか入れなかったんだ」「一流企業に入れなかった俺の人生は終わった」だのと、四六時中、劣等感にさいなまされ、みじめったらしい気持ちでいましたね。人をうらやんでばかりの自分がたまらなく嫌でした。それが顔に出るのでしょうか。住んでいたアパートの大家さんから「あんた最近、なんか人相が悪くなったわ」と言われたときはがくぜんとしましたね。

 「俺、何のために生きてるんだろ」。「こんなど田舎で何をやっているんだろう。俺が死んでも世の中は困らないんだろうな」。劣等感に打ちひしがれた私はとうとう生きる意味を失ってしまいました。仕事では上司に反抗的な態度をとるようになり、私生活も乱れ部屋も汚くなり、家族や友人と連絡をとるのをやめてしまいました。とにかくいつも私は独りぼっちでした。

悔しさだけで生き続けた日々 

 しかし、そんな自分が心の底から悔しくて悔しくて仕方ありませんでした「このままじゃ絶対死ねん」。悔しさの感情だけで自分を日々保ち続けていましたね。「何とかせんとな、何とかせんとな」。どこへ行くにも、何をするにも、頭の中で何度もこう言い聞かせていましたが、どうすればいいか分からず時間が過ぎるだけでした。

 転職支援サービスに登録したりもしました。しかし、電話をかけてきた「リクルーター」なる男性との面談で、私が「物書きになりたい」と言うと、「物書き?それは無理だと思いますね。それより〜」と即答されたのはこたえました。今思えば向こうもビジネスですし、他力本願の転職活動がうまくいくはずもありません。そもそも会ったこともない人に自分の人生の選択を委ねようとすることに違和感を覚え、登録を解除してしまいました。

 気分を変えようと近くのコーヒーショップに行って思索を深めようとしたりもしましたが、何も進展しません。仕方なく帰宅しますが、夜が深まるにつれ、「あぁ、どうやら今度こそいけないようだ。もうこれで俺の人生終わるのか」と毎日のように思っていましたね。夜は本当につらかったです。

 そんな中、ふと学生時代のことが頭をよぎりました。「マスコミを志していた自分はどこにいってしまったのか」。しかし、次の瞬間には「でも俺はタイミングを逃してしまった。年齢もいってしまったし、もう遅いんだ」と諦める自分がいました。それを繰り返して悶々としていましたが、どうしても心のどこかで引っかかるものがあり、思いが断ち切れません。そしてある日、自分に言い聞かせるように決意しました。「もう一度、挑戦するしかない。泥くさくても恥をかいても、絶対に未来を変えるんだ」。

晴れて新聞記者に

 それからは仕事の合間を縫って必死に受験勉強しました。家では集中して勉強できない性格でお金も満足にありませんでしたので、休日は朝から手作りのおにぎりを3個ほどカバンに入れて、10キロ離れた隣町の図書館まで軽自動車を走らせていました。何枚も作文を書いては推敲したり、面接の想定問答を作っていましたね。勤務日は疲れ切って勉強できませんでしたが、休日はすべての時間を受験準備に費やしました。

 そして社会人枠で記者を募集していた数社を受験しました。落とされもしましたが、念願かなってようやく地方にある小さな新聞社に入社できることが決まりました。大学の同級生のように大手のマスコミではなかったですが、心の底からうれしかったですね。「自分の手で道を切り開いたんだ」ってね。26歳のことでした。

 就活で挫折した大学3年からスーパーで働いていた26歳までの5年間は、精神的、肉体的にも本当につらかったですね。この期間は私の「暗黒時代」で、思い出すだけでも今もボディブローのような嫌な苦しみに襲われます。

 しかし、この頃の私は他人と比較してばかりの小さな人間だったのです。当時は「一流企業」「収入」「休日の多さ」が重要なステータスだと信じて疑わなかったのです。一流企業で高い収入が得られれば、充実した人生が送れるんだと思い込んでいました。

 ですが人生はそんな単純なわけありませんよね。恥ずかしながら、当時は人が生きていくうえで何が大事なのか、よく理解できていませんでした。

 それを本当の意味で知ったのは、転職後に出合ったDTM(デスクトップミュージック)を通じて私に寄せられた一通のメッセージだったのです。

     ⇨ #3 新聞記者がサウンドエンジニアを目指した理由(下)
        

 


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