村上春樹作品の読書時間は『猫を棄てる』にくぐらすと、おいしくなる

村上春樹はたまにカキフライを比喩に用いる。
そういう意味で『猫を棄てる』は油だ。
春樹作品の読書時間を『猫を棄てる』にくぐらすと、おいしくなる。

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趣味を聞かれたら、読書と答える。
読むジャンルを聞かれたら、小説と答える。
読む作家を聞かれたら、村上春樹と答える。

18歳から僕が採用している応答テンプレートだ。ただ、テンプレがなくて困っていた続く問いがある。「村上春樹のどこが好きか?」だ。これまでは、次の3パターンで答えることが多かった。以下、村上春樹を春樹と略す。

春樹小説に好意的 or 未読の相手には、「語感が好きです。とにかく文章のリズムがよくて、読んでて心地よくなります」と言う。

春樹小説の超常性に否定的な相手には、「エッセイも好きなんですよ。論理的かつ面白く物事を表現していて、おすすめです。1回、◯◯を読んでみるといいかもしれません」と言う。◯◯は相手の興味関心次第だ。

政治的な主義主張が強い相手には、「とりあえず、エルサレム賞の受賞スピーチを読んでみてください。そのスピーチの目線が好きなんです」と言う。

だが答える度に、腑に落ちない感覚があった。僕が決定的に好きな春樹要素はもっと別にあるはず、という不完全燃焼感を毎回抱いていた。

しかし、ようやく。

『猫を棄てる』を読んで、納得する答えに辿りつけた。僕は以後、好きな春樹ポイントについて聞かれたとき、心置きなく語ることができるだろう。

僕は春樹の何が好きだったのか?
敏感になれること、だ。
我々凡人が受け継ぐ集合的な何か、に敏感になれることだ。

そう言っても、春樹マニア以外には、意味不明でしかないだろう。語弊を覚悟で、平易に言い換えるならば、

「例えばですけど、いい絵や、いい音楽、いい映画、、、いい芸術に触れると、訳もなくグッとくるじゃないですか。芸術じゃなくてもいいです、想像物であれば、何でもいいです。

そして、過去未来を含めた他の人も、同じようにグッとくるんだろうなって考えると、ああ、これが世の中にあってよかったって思うわけです。で、春樹作品に触れると、一つひとつの想像物から多くを感じとり、そういう瞬間を増やせる気がするんですよね。

そうした何ていうか、人類普遍の感受性が高まる気がするのが、春樹作品の好きなところです。春樹作品には、そういう意味で敏感な人、敏感な場面がたくさん登場してきます。リズムのよい文章に乗って」

だ。本書からその感想を得るのは、見当違いかもしれない。これまでの春樹作品やインタビューを読めば自明なことだったのかもしれない。春樹が知ったら苦笑するかもしれない。

しかしである。

春樹の長編作品に繰り返し描かれてきたモチーフである戦争(およびシステムが抽出する悪しきこと)のエピソードが、春樹の親御さんの生涯に縁深いこと。一人ひとりの思い・歴史を受け継ぐ責務が我々にはある、と春樹が述べていること。思い・歴史は、集合的な何かに置き換えられるからこそ、我々はその責務を果たさねばならない、と春樹が明言していること。

それらのことから僕は、「春樹の小説家としての営みには、自身や近しい人の歴史や思いを、物語という形で、集合的な何かに受け渡す作業が含まれている」と考えた。春樹は40年以上の作家生活において、職業人として誠意を以て、その受け渡しを遂行してきたのだと思う。

その受け渡しの物語を読むことが、僕は好きだったのだ。
我々は、集合的な何かから、どんな思い・歴史を受け取り、還元すべきか。
その点で、敏感になれる気がするから、僕は春樹が好きなのだ。
春樹作品というお手本に触れることで、敏感になれる気がするのが、好きだったのだ。

敏感になったからと言って、いいことがあるのかどうかはわからない。直接、快楽を得られるわけでもない。ただ僕の場合は、システムが軋む音に耳を澄ましたくなったり、身近な人がシステムと向き合ったときにどんな思いを抱くのか想像したくなったりする(錯覚かもしれないが)。個人的にその想像癖は、ないよりもあった方がいいと思っている。

『海辺のカフカ』が好きだ。カーネル・サンダーズがいい。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が好きだ。主人公が両方のポケットで別々に小銭を数えるのがいい。
『ノルウェイの森』が好きだ。突撃隊がいい。

春樹作品の主役は、何かを受け取って、何かを変える。春樹が、1人の平凡な息子としての来歴を、ある種の血肉とエンジンにしながら、その受け渡しを描いていたことを、本書は示唆している。

それがわかったことで、僕は春樹の何が好きだったのかに気づいた。本書を通じて、春樹作品の読書時間を一旦総括して、素敵な時間に現像し直すことができた。

あるいは、これから春樹ワールドに入門・再入門する方も、まず『猫を棄てる』で春樹の世界観を知ることで、読書が捗るかもしれない。特に、春樹作品の長編の不可思議な出来事にギブアップした方におすすめしたい。

本書に出会えてよかったです。ありがとうございました。


※『猫を棄てる』感想文コンテスト向けの文章です。

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