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いつか、少しだけでいいから、京都にいた頃を懐かしんでください。


北大路交差点から真っ直ぐに伸びる烏丸通を望むと、7,8キロ先にそびえたつ京都タワーがチョークくらいに見えるのが好きだった。

春学期も終わりの見えた7月。
うだるような暑さでアスファルトは燃え上がり、京都タワーはおろか、一寸先すらうまく見えない。

大学構内をだらだらと歩く学生は揃いも揃って腑抜けたツラをしていた。
しかしまあそれは無理もない話で、祇園祭の高揚感に満ちたこの時期、勉学に励む学生など皆無である。
恋愛に忙しいのだ、そんなことをしている暇などない。


講義ノートを手に入れた者、出席回数とレポートのテーマで単位取得を確信した者、すでに単位を落とし開き直っている者。

成績など知らぬ存ぜぬでそれぞれの夏休みに想いを馳せ、心ここに在らずという有様だ。


だけども我がゼミではそうはいかなかった。

詳細に語る必要もないのだろうが、私は某今出川大学の文学系のゼミに所属していた。


なぜこのゼミを選んだのかというと、1回生時に受けた特論の講義で教授の研究に感銘を受けたから、というわけじゃない。
ただなんとなく、領域が「英米文学」ではなく「中期のイギリス文学」に絞っているところが、わずかに存在する学生としての琴線に触れただけだ。
それから、そのゼミはあまり人気がないという噂で、ダルビッシュの防御率とおんなじような私のGPAでも選考に通りそうだった、ということも大きく起因しているだろう。

毎週のように課される課題と、次週に待ち受ける拷問のような成果お披露目会に、ゼミ生は常日頃から戦々恐々としていた。

文学作品には答えがない、個人個人の解釈でいいんだ、と抜かすエセ文学評論家がいれば前へ出てきてほしい。
憤怒のビンタをお見舞いしよう。

確かに筆者の考えなんてわからない。隣に座る彼女の気持ちさえも理解できないのに、400年前のイギリス人の気持ちなんかわかってたまるか。

それに読む人のバックグラウンドによって受け取り方が変わるのだって本の面白いところじゃないか。

とはいえ、的外れで有耶無耶な解釈が全て尊重されるのならば、大学で学ぶ必要なんて微塵もない。
私たちはここでアカデミックな文学を習得することを前提に、実家の両親から仕送りという名のあぶく銭を頂戴しているのだ。

なので、文学の解釈には一定のルールがあるよ、でもその中で個々人の特色溢るる解釈をしてね、と言った具合である。

今思い返しても背筋が凍る。


ゼミの教授は一流だった。
日本でもイギリスでもエリートコースを進み、名だたる称号を手にプロッフェッサー街道を爆進している最中だ。

対して、私の視野の狭さは群を抜いていて、よく頭でっかちなレポートを産み出していたので、しばしば落ち着いたトーンで詰められたものだ。

それでも私は先生が好きだった。
シェイクスピアに取り憑かれ、研究に没頭し、人生の大半を文学に捧げている姿がかっこよかったし、人間として凄みがあった。

そんな先生が研究室でぽろっと話したことで気に留まっていた言葉がある。

京都は実に寂しい街です。
文化、芸術に触れる機会が極端に少ない。
ここは僕にとって生き地獄なのです。

文化といえば京都じゃないのか。
観光客だっていっぱいきてるじゃないか。
京都は文化が生活に溶け込んでいる素晴らしい街じゃないか。
京都の空気が好きで、京都に下宿を構える私には到底わからなかった。




大学を卒業して数年、学科の機関紙でゼミの先生が東京の大学に移られたことを知った。
もう母校には私の所属したゼミがないとわかると、若干の寂しさも湧いてくる。

だが、最近になってようやく先生の言葉の意味が少し分かった気がする。

京都の文化とは、古き良き遺産を後世に守り継いでいるものである。
今日見た清水の舞台は、きっと30年後に訪れても同じ顔をしていて、私は同じ感想を抱くだろう。

しかし、同じ脚本から無数に生まれる演劇は、劇場に足を運ぶたびに違う趣向があって違う面白さがあるのだ。
新進気鋭の絵描きの作品も、東京には世界各国から集まってくる。
あっちには新しい風がどんどん吹いて、先生を飽きさせることがないのだろう。

先生には京都が合わなかった。

京都好きにとっては少し寂しい。
だけども先生が東京で楽しく暮らしていたらそれで良いか。

「京都は生き地獄だ」と言った先生。
いつか、ちょっとだけでいいので、僕らと過ごした京都を懐かしんでください。

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