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満開で時間が止まった永遠の春。ダミアン・ハーストの「桜」(国立新美術館)

■計算された白い空間に、等身大の桜が花開く


 大変遅ればせながら、国立新美術館の企画展「ダミアン・ハースト 桜」を鑑賞した。

 計算しつくされた、絶妙な「余白」感のある明るい白い空間で、「等身大」の桜が出迎える。

 3月2日から開催されていたことを知って(しかも、同時開催のメトロポリタン美術館展は行っていた)、大いに悔やんでおきながら、再びすっかり失念していて、一足先に行ったアート友達がリマインドしてくれて、慌てて足を運ぶに至った。

 会場に入ってやはり、作家と企画者による粋な計らいを感じる。国立新美術館は桜の名所、青山霊園に隣り合っている。ここでの桜は、リアル世界での桜とつながっていたのだろう。ハーストの桜を堪能したあとの、霊園の夜桜は、どんなに美しかっただろう。

 しかもさらなる個人的な失点として、桜の季節には、メルセデスミーで、桜を観ながら車を試乗できるイベントが行われており、今年も楽しませてもらっていた。その前に青山霊園で軽くお花見をして、美術館の横も通っていたのだ。

Mercedesのオープンカーで桜の名所を試乗する「桜クルーズ」。写真は東京ミッドタウン付近

■抽象画→桜、に至った作家の意図


 周囲を見れば、みんな微笑みながら写真を撮るなど(動画以外の撮影は自由)、「静かなお花見」といった雰囲気だ。自分のなかの季節を巻き戻し、2022年最後の桜を楽しませてもらおうと気持ちを改めた。

 作家ダミアン・ハースト、展覧会の意図については、こちらのページに詳しい。同ページ内で視聴できる動画(ダミアン・ハースト、カルティエ現代美術財団によるドキュメンタリー・フィルム)は会場の休憩室でも上映されていた。クオリティが高く、いくつかの発見もあり、3度も観てしまった。

 その内容は、そもそもハーストが抽象絵画から桜を描くに至った理由、絵筆に付けた絵の具をキャンバスに投げつける描き方の紹介、そして桜を描くにあたり、はじめは白、赤、ピンクだったのが、反対色を入れることで絵に生命が吹き込まれたという発見(印象派、また後期印象派のスーラの点描絵画に通じる)手法などなど・・・ダミアン・ハーストがどんな経緯で「桜」に至ったのかを、美術史家のインタビュイーが巧みに引き出し、コンパクトにまとめている。

 (ちなみに、展覧会概要には「色彩や絵画空間に対する探究の大きな成果」とあるし、会場で配布されているガイドマップには「<桜>のシリーズは美と生と死についての作品なんだ。」というハーストの言葉も記されている)。

 ハーストといえば、実力派ながら「物議をかもす現代アーティスト」のイメージが強い。

 そのハーストの挑む桜だから、上記の美と生と死についての作品という言葉からは、重い意味を推測してしまう。

■549×732cmの「巨木」の前にたたずむ

 〈桜〉のシリーズは107点からなり、作家自身が24点の大型絵画を選び、展示空間を作り上げたという。最も奥まった壁に展示されていたのは、見上げるような巨木を思わせるこの作品だ。

 眺めていると、ふしぎな気分になってくる。この感覚は・・・地中美術館(直島)で、モネの大睡蓮を鑑賞するときのモードだ。

 下記が、わたしが今年、幾度も訪ねている地中美術館の「大睡蓮」だが、作風、もちろん年代(と背負っているもの)、静的、動的、というところは全く異なるのだけど、焦点がない自然の一部分を捉えた作品であり、それゆえに鑑賞者の自由度が無限大となって→観る者を作品の中に連れ込んでしまう力があるように感じられたのだ。

『図説モネ「睡蓮」の世界』(創元社)p105-106

■「満開」で時計の針が止まった世界

 桜の絵のほかなにもない空間は、満開の瞬間に時間が止まった世界のようだ。作品たちは呼応して桜並木を作り、その下でわたしたちは、永遠のお花見を楽しむことができる。

 作品リストを見ると「個人蔵」が多く、展覧会が終われば、作品は所有者たちの元に帰っていく。そのとき魔法の時間は終わるということなのだろう。


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