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そうだ!人間は考える葦だった!!

「〇〇に追加されました」

こんなnoteからのお知らせをいただくことがあります。
他のnoterさんのお気に入りに自分の記事が仲間入り。          ふわわと心が躍るような感覚です。
私の記事が気に入ったいただけたと実感できるからです。

今回はそのことについての話。

「時ノ刻」さんというnoterさんが私の記事をご自身のマガジンに加えてくださいました。
以前からnote上「好き」を送らせていただいたり、送っていただいたり。そんなお付き合いの方。

マガジンへの追加のお知らせを見て、今回は少し驚きました。
1年前の記事だったからです。
私自身もその記事の内容を忘れていて、読み返すと、なんだか懐かしい気持ちになりました。


このように他のnoterさんからの「スキ」や「コメント」「マガジン追加」などのお知らせは自分の記事を振り返り、学びの機会をもらえる絶好の機会だと思うのです。

そして
改めてnoteを始めて間もない頃の自分の記事との対面。

その1年前の初々しい記事がこれです。まだぎこちない文書ですが、読み返して
「ああ、そうだった!」
と自分の記事なのに考えさせられました。


私たちがこのコロナという見えない敵と戦い始めて、もう2年あまりの月日が流れています。
その中で私たちの「当たり前」が大きく変わり、生活の制限やさまざまな注意喚起を受け入れてきました。まさしく忍耐の時でした。

しかし、2年以上もの戦いは人の意識の大きな変化ももたらしています。

教育現場に身をおく私は子どもたちの姿から学ぶことが多いのです。

我慢、忍耐、制限、、。

そんな言葉で行動が縛られることは、すでに「日常」になっています。
行事の多くは中止や延期、あるいは縮小を余儀なくされました。

そんな学校生活に大人たちは
「可哀想」と同情の目を向けます。
しかし
果たしてそうでしょうか?

目の前の子どもたちは2年前と変わらず楽しげです。
マスク越しでも友情を育み、縮小された行事に工夫を凝らし、新しい「やれる」形を生み出しています。その様子はちっとも可哀想ではありません。むしろ頼もしく映ります。

この状況を「可哀想」と決めつけるのは、以前の生活が染みついているからです。子どもたちは、大人の「可哀想だ」「不幸だ」という言葉を聞いて、「ふーん、私たちの生活は可哀想で不幸なんだ」と思ってしまいます。

でも、実は子どもたちの柔軟な頭や心は、この今の状況こそが「当たり前」の日常になりつつあります。

だって、2年ですよ!

子どもたちの短い人生の中の2年は、「異常」が「普通」に変わるには十分な月日です。長引く戦いに嫌気も差しますが、その思いは大人に多い感覚です。

元通りに戻ってほしい。

もちろん、これは私の願いでもあります。

しかし

人間は考える葦なのです。

自然の中では弱い存在かもしれませんが、考える力を授かりました。仲間と協力して新たな力を得ることもできます。創造力と叡智で壁を乗り越えていきます。

目の前の考える葦の子どもたちが教えています。


失ったものを嘆くより、得たものに目を向けたい。

見えない敵より、支えてくれる見えない力を感じたい。


人間は考える葦である。


自分のかつて書いた記事を読み直すことで、想いを強くすることもあります。
古い自分の記事を読み返すことは、ちょっぴり気恥ずかしいですが、たまには悪くない。

今回の「お知らせ」はそんな気づきを与えてくれました。noteはこんな場面にも学びをもたらすようです。noteの利用法はさまざまです。ここにも考える葦の思考が働きます。

最期に、今回私に気づきをくれた「時ノ刻」さんの記事をひとつ紹介させてくださいね。
感謝を込めて。


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