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あかね噺-第118席・任せたぞ-感想

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今週末はevo。今年はSF6も2年目なので、かなり攻略が進んだ形での対戦で、相当面白くなりそうな予感がします。
私はダイア4で足踏みしてる感じの下手くそなんだけど、上手い人の対戦を見るのは好きで、毎年evoは楽しみにしています。
SFシリーズも、昔は日本の一強だった時代から、世界中に猛者がいる環境になっていて、国内大会よりもこういう国際大会のほうが面白く思っています。
鉄拳7のアルスラーン・アッシュが現れて吹き荒れたパキスタン旋風のような事はなかなか起きないと思うけど、どんな人が出てくるか楽しみにしたいですね。
心置きなくevoを見るためにも感想を終わらせておかねば!

◆あらすじ


週刊少年ジャンプ 2024年7月16日発売 33号 センターカラー

二つ目が正式に決まり、師匠の志ぐまと共に準備に忙しいあかね。二つ目になる事を喜ぶ志ぐまに、人情噺を教えて欲しいと願い出る。

◆感想


新章のスタートという事で、あかねの二つ目の昇進に向けての準備回でありながら、この漫画の核心が語られた回でしたね。
他にも、志ぐまと一緒に準備するあかねが、楽しそうで良くて、この師弟が、いつまでもこんな感じで朗らかに進んでほしいと思いました。
今回は、紅天女・消えた演目・このままで、について書いていきたいと思います。

紅天女
最近、影の薄かった禄朗兄さんが久しぶりにがっつり出てきましたね。
前座修行編で出てきた時は、カッコいい先輩としての登場し、魁生のライバルかと思ったのですが、そういう感じでも無く宙に浮いてる感じがしていました。
”志ぐまの芸”に興味があるという描写があったものの、本人の意志というよりも師匠の命令っぽく写っていたので、この方向で重要なポジションを担うと思ってなかったのですが、”志ぐまの芸”について重要なポジションを務めそうです。

その”志ぐまの芸”についても、重要な情報が明かされてきました。
以前も”志ぐまの芸”について考察したのですが、全然違いましたね。
”志ぐまの芸”とは、先代の志ぐまが、未完である事から、名前を書かずに演っていた演目と分かりました。
恐らく、あかねが教わる人情噺は、この”志ぐまの芸”になると思います。
誰もできなくなった幻の演目を、いろんな人物が欲する構図は、完全に”紅天女”ですね。

何を持って未完なのか?にもよりますけど、噺が最後まで無いみたいな事で未完って事はありえますが、普通に考えて出来に納得できないから未完となっているのが自然だと思います。

その場合、先代の志ぐまは、落語界でも評価が高かった人物なので、出来に納得できないとしても、聞いた人が未完だと判断できたとは考えにくいので、どこが未完なのかを理解できたのは、本人以外にはごく少数の選ばれた人しか理解できなかったと思います。

こう考えていくと、幻の演目になっている理由が見えてきます。
”志ぐまの芸”の本来の名前やネタの内容は、調べれば探すことは出来ると考えられますが、”志ぐまの芸”を演るには、なぜ未完だったのかを解明しないと、本当の意味での”志ぐまの芸”を出来たとはならない。
現志ぐまも噺そのモノは、覚えていて練習もしているが、何を持って未完とされているのか?また、未完である理由を理解しても、それを埋めれていない限り、”志ぐまの芸”を演ることは出来ないのでしょう。

この構図が「紅天女」そのものだと思います。紅天女も見た人も沢山いれば、話の内容も知れ渡っているけれど、月影先生が認めない限り演ることは出来ない。紅天女の本質的な所を理解しているのは月影先生のみで、それは口伝で教えれることではない。
これが、紅天女が幻になっている理由でもあります。

とはいえ、この”志ぐまの芸”を出来るようになること=あかねの真打ちになったと思います。
これは、二つ目昇進編で、出来上がる噺では無く、これはあかね噺のエンディングに向けて具体的に動き出したと思います。

消えた演目
”志ぐまの芸”のように、消えてしまった演目と言うのは知らないのですけど、消えそうだった噺はいくつかあります。

例えば、まいけるの真打ち昇進試験で演られた「たちきり」。
この噺は、上方落語では神聖視されていて、大看板でなければ演ることが許されず、演ったとしても囃子方(ラストの三味線)も協力しなかったと言われています。
当時、若手であった米朝が師匠に内緒でこの噺を演ってバレてしまって怒られると思ったが師匠から許された。
これに驚いた師匠たちが、他の若手にお前らはやれんのか?と発破をかけたことで、この噺は残ったとされている。
当時を振り返って”もしあの時に米朝が演っておらず、他の若手が怖気付いて演らなかったら、この噺は無くなっていたかもわからない。”と語っています。

他にも「明烏」「芝浜」といった現在も人気があるメジャーな演目も、桂文楽の「明烏」や桂三木助の「芝浜」は名人芸として神聖視されていて、彼らの全盛期は、彼ら以外がその噺をする事は許されない空気がありました。
落語の年功序列的な部分だけでは無く、客も彼ら以外の「明烏」「芝浜」を
聞きたがらなかった事が、他の落語家にその噺を演らせなかった訳です。
「明烏」は古今亭志ん朝が、登場人物のキャラクター性を立たせた形で演ることで、桂文楽の「明烏」と違った魅力を出すことによって認められ多くの人に演られる落語になりました。
「芝浜」は、三木助が作りあげた形が人気になったことで、現在に引き継がれるような演目に成長し残っています。

他にもこぐまの演った「擬宝珠」は掘り起こしで、”志ぐまの芸””と同様に失った噺を現在に蘇らせており、他にも「地獄八景亡者戯」や「百年目」といった掘り起こしの落語も多く存在します。

新作落語も、古典にない噺を作る事は、無かった噺を演るという意味では近しいものがあります。
新作落語も、作った本人だけが演るならただの新作ですが、すべての落語は、誰かが作った時は新作落語であり、誰かが引き継ぐことで古典落語になりました。
「一文笛」のように、近年作られて、作者が亡くなった今も多くの人が演っている噺もあります。作者以外が引き継いで演らなければ、消えた落語になったのかも知れません。

このように消えた落語、蘇った落語、消えゆく落語と、時代によって形を変えてきて現在の形があるわけで”志ぐまの芸”と聞いて、この噺か?と思いつくものはありませんが、そういう環境は珍しいことでは無いと思います。

このままで
そして最後が示されたことで、志ぐまの死亡フラグが立ったようにも感じました。
あかねは、最後に向けて志ぐまの元で成長するのでは無く、志ぐまの側から離れて成長する段階に進んできていると思います。
”志ぐまの芸”を完成させるのは志ぐまでは無く、あかねであるべきだと思うと、志ぐまがあかねの側から居なくなる方が話の流れとしては、スムーズに感じます。

とはいえ、この師弟の関係は微笑ましいので、このまますくすくと成長してほしい感じもします。
志ぐまは、基礎を教えた後は、遠回しに方向性は示すが、自ら積極的にあかねに対して教えるようなことはしないので、”志ぐまの芸”を教えて遠くからあかねの完成を見守るなり託す事もできそうな感じはします。

あかねが順調なだけに、大きな試練が必要ではありますが、こういう形での試練というのも安直な感じがします。
死亡フラグが立ったように感じますが、だからこそ、このままの優しい世界のままで進んでほしいです。


新章が始まって、いきなり物語の核心に迫ってきたことで、この連載がどうなっていくのか興味が尽きない感じです。
禄朗以外に、誰が絡んでくるのかも楽しみにしながら待ちたいと思います。
という事で今回の感想はここまで。でわでわー。





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