血糖値は鬱に効くのか?
何かできる、何にでもなれると思っていたけれど
母になるということは
母にしかなれないということで
何かになるには何かになれないということだ。
それを理解した時に、また一つ強い大人になれる。
さて。今日は面白い視点に触れたから書こうと思う。
血糖値と鬱
食事による血糖値の安定は精神に作用するのか?
どうなのだろう?気になる。
例えば娘が発達障害なので、病院にいくと
「甘いものは積極的に食べさせないように」
などと医者に注意喚起される。
そして、睡眠時間とスマホやパソコンの使用頻度も問われる。
心はたわいもない刺激によって反応するんだなぁ。
"血糖値と心の関係"は確かにあるのだろう。
コカコーラ実験で起こった低血糖で、震えや手足の冷え、気持ち悪さを経験したのだが、その急激な反応によって私は実験を中断せざるをえなかった。
ただ、高血糖後に訪れる低血糖までいかないと自覚症状はないのだ。
固形物での血糖値の乱高下では、私はそこまで身体への負担は感じなかった。
負担はあったのだろうが、器具をつけて測定でもしない限り今自分がどのような血糖値なのかは気づかない。
そして、下がった血糖値を早く上げたい欲求、つまり飢えが知らず知らずのうちに衝動性を上げる。
おなかが空いてたり体調が良くないからイライラするのは自然である。
だから飢えは本能を刺激して、一部の人は暴力性が上がったり、落ち着かなさが増したり、集団生活を送る上での困り事が増えたりするのだろう。
ヒトの栄養調節機能はすごいから、身体が欲するものを素直に受け入れると、たいていは欠乏した栄養素が補われる。
また、身体にとって過剰になると食べたい気持ちが抑制されるのもすごい機能だ。
その食欲に関する正常な機能は、内脂肪が蓄積されると破壊されたりするって本に書いてあるみたいだけど、今回はいいや。
ただ、その衝動と絶望は区別したいと思う。
これは私が絶望を経験したから、絶望を持って生きる人に対して私が思うことなのだ。
絶望と幸福
富があり満腹でも絶望はあって、逆に貧しくて空腹でも希望に満ちた人はいて、その違いは未来への展望だと思う。
絶望する人は様々な要因が複雑に絡んでいて、一つを紐解いてもまた絡まってしまうんだ。
街にいるホームレスがハンバーガーを食べたからホームレスを解消できるわけではないのと同じで、
若者がハンバーガーを片手に集う時とはちがう。
経験と富の蓄積と、先天的な思考回路と他者からの認知で、人は形成されていく。
ヒトは今ではなく未来をみて生きる動物だから面白い。
その未来予測能力がヒトを人にして、文明と社会と科学が発展した。
そしてそのすごい能力によってお気持ちの乱高下も起こる。
何かを食べたから未来が切り開かれたりすることは稀だけれど、しかし、今を生きなければなりたい自分になれないのだということを考える。
手軽に身体を維持するためのエネルギーを供給してくれるチェーン店の存在は、余剰を自己に還元する機会を得やすくなっているとも言えて、それは正しく祈れる人には有り難い場になるだろう。
そういった意味でマックは教会にもなり得るはずだ。
ステーキではなく、自炊でもなく、マック食べて浮いた時間やお金や労力で何かができるかもしれない。
資本主義によって、安く美味しく早く生産された食べ物は、おそらくたった100年前と比べてみても、人の生活をとても豊かにした。
そして飽食の時代となって、心のあり方も、食のあり方も変化した。
比較する動物
数ある食事の選択肢の中からマックしか選べないのなら、それは話が別だ。
自分の持つカードの頂点にグラコロがある生活と、ステーキが選べる中でのグラコロでは、同じグラコロであってもグラコロの重みが違ってくる。
相対的貧困ってキリがない。
上を見たら上がいるし、比較の対象が無限に存在するんだ。
資本主義で発展したけど、共産主義はこういうところから幸せへの発想を得てるのかもしれない。
別にどんな主義でもいいけど、幸せになれるかどうかは考え方次第でもある。
おまけ
身体と心は密接に繋がっているので、スマイル0円の価値は客にではなく、店員に還元されているはずだ。
私がマックの店員をしていた頃は、カウンターに鏡が設置されていた。
常に笑顔を意識していたからか、学生時代は明るく過ごせた気もする。
笑う、ということは絶望を忘れさせる。
顔が笑っていれば、心はそれに合わせるのだ。
そして食べるということは生きるということなので、絶望という死へと向かう気持ちと相反する。
相反する行為をすると、ヒトはその行為に意味を持たせたくなるものだ。
楽しいから笑うのではなく、笑っていたから楽しいのだと認識する。
相反するからといって、食事が鬱の原因を取り除いてくれるわけでもないけれど、一時の安定を得るにはいい。
ただ、食事の効能は本当に一時だ。
数時間でお腹は減るし、「血糖値が乱高下しない食生活」というものは、炭水化物と比べるとお金がかかるんだ。
血糖値の安定は、炭水化物や糖類ではなく肉や油を摂取することで得られる。
筋トレをして、食事制限もして健康な身体を得ていても、精神を病む根本的な原因が取り除かれることがないかぎり、結果的に鬱であり続ける。
どうしようもないのだ。
諦観を得られる哲学は偉大で、
あきらめることをすると少し大人になれることも学んだ。
最近読んだ本
関連する実験動画がYouTubeにあがってた。
動物も不公平を感じると怒るというやつだ。
ヒトの社会での平等ってなんだろうね。
米にお気持ちの重みを持ってくるのが日本人の歴史として、富の使い方として私はお得であると思うんだけれど、米は炊かないといけないし、冷めて時間が経つと不味いし、噛み締めないと味がない。
それに米を米として育てるのにも時間がかかる。
米はある程度、環境が蓄積されたヒトの選択肢なのだ。
蓄積ってすごい。
積み重ねていくと運が上がる。
その富の破壊行為である戦争はなんでするんだろうね。
破壊で富を得るのではなく別の方法で国を守るリーダーがいいけれど、エジプトは結果論かな?
一致団結と富の集中で建造物つくるのすごい。
なんか脱線した。
考えるコメントくれてありがとう。
笑おう
本が欲しい