守破離の哲学。
わび茶を完成させた千利休(1522-1591)の教えを百首の和歌にまとめた利休道歌(りきゅうどうか)。この百首目に次のものがある。
この守破離の3段階のうち、「守」と「破」との違いについて、なるべく哲学用語を避けながらも哲学的に考えてみたいと思います。
※ご専門の方へ:
ここで扱う守破離は、哲学の観念論(守)、存在論(破)、場所論(離)に対応させています。すなわち、「認識」、「自覚」、「行為的直観」の3段階に相当し、西田哲学ではそれらが成立する場所を「潜在有」、「対立無」、「絶対無」としています。
「守」とは何か。
「守」とは「守る」という意味です。何を守るかというと、規矩や作法、つまりルール守るということです。
見えたものに則って何かを成すこと、これが「守」です。
物理的な現象や、法則や理論、また意識や精神の働きも、すべてが対象として捉えることのできるものであり、現れた結果です。これらは自分(自我)の内外において知覚することのできる見えたものです。
「守」とは、意識や自我の立場において何かを成すこと、とも言えます。
もし、毎日が同じ日々の繰り返しであり、ただ言われたことだけをやればよいのであれば、「守」の立場でも十分でしょう。
しかし、私たちが対峙する切実な問題や悩みの多くは、前例がなく、また答えがありません。前例もなければ、答えもない中では、知識や理論は参考にはなりますが、それだけでは不十分です。
「破」とは何か?
前例のない1回きりの場面においても、熟練してくると正しく考え、正しく行動することができるようになります。
ルールが全てなのではなく、ルールとも適切に「間合い」を取ることで臨機応変な対応を取ることができます。ルールなどの見えたものよりも、それらのベースとなる歴史的・社会的な観点から、その最適化を図るのです。
「破」とは、「間合い」に則って何かを成すこと、と言えるでしょう。
この「間合い」は見えません。見えるのは認識の対象となるものです。「見えない」とは物理的、観念的、意識的に捉えようとしても見えないという意味であって、行動する(=間合いを取る)ことでそれを捉えるのです。
「守」り尽くしてこその「破」る
「守」の段階を飛ばして「破」ということはありません。
例えば、お笑い芸人の方々は、とてもよく常識を知っています。常識を知らない人が常識外れなことを言っていても面白くとも何ともありませんね。
常識をよくわかっているからこそ、上手にそこを破るのです。状況に合わせてそのさじ加減までコントロールすることができます。
ものづくりも同じように、論理や知識無くして革新ということはありません。当たり前のように基礎が身についているからこそ、その延長線上だけではないものを正しく捉えることができるのです。
新しい発見や発明というのも、偶然ではないのです。
知る(守)、好む(破)、楽しむ(離)
守破離は孔子の論語にも表れています。
休日に子供と一緒に公園に出かけるのも、最初は「連れて行ってあげる」です。しかし、公園に行って楽しい時間を過ごすと、次第に「一緒に公園に行きたくなる」のです。
また、自分の進路というのも、「大学は就職のために行く」とか、「お金を稼ぐために働く」など、理由が先行するものです。
しかしそれは、きっかけとしては必要なのだけれども、次第に「個性」を発揮できてくると、個性的に生きることの喜びを味わうことができます。
自己の得意分野を活かして他者の何かを豊かにすることが、そのまま自己の喜びであることを自覚するのは「個性」の働きです。
人と違うことをして、目立つことが個性であると考えるのは「守」の観点です。「破」では、そのやり方の実際が個性的かどうかであって、その人とのかけがえのない関わり合いにおいて、はじめて「個性」を知るのです。
ですから、孔子の言う「これを好む」は、決して独りではないのです。
※鄰(となり)とは、共鳴・共感する人という意味
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