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「努力」という言葉が怖い

「努力は報われる」というのは、真理ではなくて願望だと思うのです。

でも願望であるだけに人々の心の奥深くまで根を張っていて、時に人を縛り付けたり傷つけたりするんじゃないでしょうか。

日々努力していたいと思うけれど、「努力」という言葉がとても怖いです。なぜこんなに怖いのか、なぜこんなに責められているような気持ちになってしまうのか、わからない。わからないということが余計に怖いので言葉にしてみました。

1.努力が「足りない」って何だろう

 学生時代、勉強と努力はほぼイコールで結ばれると思っていて、周囲の人々もそういうニュアンスで「勉強」「努力」という言葉を使っているように感じていました。

勉強することは努力することで、努力をすれば成績が上がって、そして努力をする人は人間性的にも素晴らしいのだとそういう考えが浸透していたように思えます。

 別にそれ自体は全く悪いことだと思いません。努力した先に何か得るものがあるのは事実ですし、そこに希望を見出すからこそ頑張れます。そしてなにより努力している人はとても魅力的です。

 ただ、この考えの恐ろしいところは「成果が出ないのは努力が足りないからで、そんな自分は(相手は)人間的にもダメなんだ」という考えを育ててしまうところです。

目指すものがあるのなら、現状に満足できていないなら、努力しなければ!という考えは素晴らしいと思います。でもそもそも努力が「足りる」「足りない」って何なのでしょう。

勉強においては、ある程度勉強量が物を言う面もありますが(そこがまた厄介)目に見える、数字に置き換えられる、結果にすぐ結びつくものだけが努力ではないと私は思います。

 そもそも人それぞれ生まれ育ってきた背景が違うのだから、目標は同じでもそこに至る過程は違って当然です。それなのになぜか努力は他人と比べることができるかのように考えられているような気がしてならないのです。

2.客観的に分かる努力と分からない努力

 例えば私は詰まった文章を読むのが苦手で、同じ行を何度も読んでしまったり単語の切れ目がすぐには分からなかったりします。大学で発達障害について学ぶ中で、非常に軽度ですがディスレクシア(識字障害)に近い特徴があることに気づきました。日常生活に支障はないので診断を受けていませんが、センター試験等の短時間で大量の文字を処理しなければいけないテストでは致命的な問題でした。

 当時はディスレクシアというものを知りませんでしたし、知っていても自分の症状については「努力不足」で片付けていたと思います。ですがこのように、本人の自覚の有無に関わらず人はそれぞれ異なる条件のもとで生きているのだとわかりました。

 頑張っても問題を時間内に解くことができなかったのは努力不足のせいではなかったし、逆に「努力不足」という言葉で片付けてしまうことで本質的な原因を見落としていました

 自分の努力ですら正確に把握することが難しいのだから、他の人に「努力してる・してない」だなんて私は恐ろしくて言えません。自分に向けるにしても、他者に向けるにしても、「努力不足」という言葉はあまりにも辛辣で、分析や理解を放棄した姿勢の表れに思えます。

3.「努力」という言葉の誘惑

 ここまで色々と書いてきましたが、それでもやっぱり努力している人にこそ成功してほしいし、現状に文句を言う人には努力すればいいのにと思ってしまう時もあります。他の人のいう「努力」はあんなに怖くて仕方ないのに、悲しいことに同じような感情が自分の中にあるのです。なぜでしょう。

 努力をしている(ように見える人)が成功すれば、自分にも望みがあるような気がしてしまうから…だと思います。努力は生まれ持った才能に比べると再現性が高いように思えて、だから自分に分かるような努力をしている人にはついつい自分の願望も重ねてしまうのです。(単純に一生懸命何かをしている人が魅力的だと言うのもあります)逆に努力をしているように見えない人は真似しようがないので「ズルい」と思ってしまいます。

 学校の成績にせよ、スポーツにせよ、可愛さ・かっこよさなどの明確な基準のないものでさえ、努力している人に成功してほしいし、その努力は自分に解るものであってほしい。この願いは消そうと思って消せるものではありませんでした。これはもう仕方ない。

 仕方ないからこそ、口に出す時くらいは一度考えたいものです。自分や他者の結果に「努力」を関連づけることはその人のそれまでの道のりを否定することにはならないか、もっと重要な原因から目を背けていないか、自分が救われたいがために相手を傷つけていないか…

4.おわりに

 まとまりのない長い文章を読んでくださった方、ありがとうございます。別に勉強だけを取り上げた話ではなかったのですが、最後にもし受験生の方、それに類する環境にいる方が読んでくださっていたら伝えたいことがあります。(変な時期でごめんなさい…)

 長く、苦しいことも多い勉強を、受験を一応の目標・ゴールとして打ち込んでいると思います。受験の結果で自分の将来の一部が決まってしまうというプレッシャーは凄まじく、受験から数年経った今でも覚えています。  ただ、受験の結果はその日・その時間・その問題で測ることのできる能力の値でしかありません。

 その結果があなたの努力を証明するものであっても、あなたの努力を否定するものではないと言うことを忘れないでください。ましてあなたの人格を否定するものでもないし、他人と比べられるものでもありません。

 あなたの努力はあなただけのもので、ちゃんとあなたを輝かせています。

こんなことしか言えないけれど、応援しています。応援させてください。

PS.定期テストや模試は「道のり」なのでしっかり分析しましょう!

 本当の最後に、私の尊敬する土門拳さんの言葉を引用して終わりにします。少し厳しいようですが、考えさせられた言葉です。

方法論上の安易さには、プロもアマも一番引っかかりやすい。日本人の一番弱いところでもある。いわば、二宮金次郎主義である。仕事の質そのものを見抜くだけのまなこを持ち合わせていないから、ことの本質には関係ない数字に保障を求めるのである。そして数字は、努力の最も通俗な象徴である。仕事に誠実な努力を払うのは当たり前のことである。努力や敢闘はやむにやまれずするだけの話で、仕事の質や深さを保証するものではない。


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