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仏像考

はじめに

 突然ですが私は俗に「仏像ヲタク」と言われる部類の人間です。どうしてこんなに回りくどい言い方をしたかといいますと、「仏像」が美術的な性質や歴史的・文化的性質だけでなく宗教的な性質も持っている非常に複雑なものだからです。

 誤解を恐れずに言えば私は「仏像が好き」なのです。トップの写真のように写仏をしてしまうくらい…(笑)しかしそもそも仏像に「好き」と言う表現を使っていいものかいつも迷います。「仏像に心を動かされる」くらいの方が自分の感覚には沿うのですが、口語としては違和感があるので友人に話すときは結局「好き」と言う表現を用いてしまいます。

 しかし高校時代のメモ帳を見返していると、そんな思いをなんとか言葉にしようと足掻いている文章を見つけました。我ながらなかなか切実な想いを感じ、捨てるに忍びないのでここに供養させていただきます。

 土門拳さんの影響をもろに受けていたので、JKが書いたにしては随分古めかしい文章ですし、そもそも内容がヲタクの独り語りです。それでも大丈夫と言う方はどうぞお付き合いをお願いいたします。

仏像考

 考えるに、仏像の美というものは純粋な美でありながら純粋な芸術作品ではない。そこに在るのは仏師の個性の主張ではなく、仏の存在の主張だ。 では何故仏像はああも美しいのだろうか。何故美しさを追求されたのだろうか。

 その理由の一つとして考えられるのは、人々の切なる願いや祈りに耐えうるものが「美」しかなかったのではないか、ということである。人々が救いを求めて縋る対象としての仏像には、寛大さと不変性が求められる。とは言え、仏像はあくまで「形あるもの」で在るから、いつかは亡びていく。しかし土門拳も述べたように、「美」は昇華する一瞬に於いても消え去りはしないのである。

 そもそも仏教はかつて偶像崇拝を禁止していた。しかし人々は仏の教えだけでなく、その姿を求めたのだ。「祈り」には手を合わせる対象が必要だったのだろう。人に近い姿で、しかし人ではない「仏」。

 目が合う、話を聞いてもらえる、手を差し伸べてもらえる、愛や赦しを与えてもらえる…そういった実感を得るためには人に近い姿が必要だ。それでいて俗世とは隔絶された高潔さ、救いを信じるに足る気配も必要だったのだろう。この二つの融合した状態に人々は美しさを感じ、それこそが「仏像の美」なのではないだろうか。

 そしてこれは私の憶測に過ぎないが、私たちの遥かなる祖先は人々の信仰が仏の教えから離れていくことを想定していたのではないか。例えば末法思想のように。そこで人々は考えたのではないか、形骸化していく信仰を止められないのであれば、せめて人々の心は「美」によって仏につなぎ止めておけないかと。 現に多くの人が宗教らしい宗教を持たない今日の日本でも人々は寺院に足を運ぶ。仏の前に佇み、手を合わせ、祈る。それは大切な人の幸せかも知れないし、自分の成功かも知れない。祈りの切実さに差はあれど、古今東西の人々が仏を前にして等しい存在になるのだ。

 人の形で在りながら、どこか異形のもので在る仏。その姿は畏怖の対象でありつつも、絶対的な美として今も昔も変わらず人々の心を掴むのだ。




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