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おしゃべり散歩道―往路/前編[私小説/短編]

 「お花しゃん、赤ちゃんでしゅか?」
 娘が住宅街の家の花壇に咲く花に話しかけている。
「お花しゃん、お花しゃん、赤ちゃんでしゅか?」
返事が欲しいようだ。
「おーい、お花しゃーん」
何度も話しかけている。仕方ないので私が声をかける。
「お花さん、喋れないのかな?」
花に声帯はないものなぁ。
「お花しゃーん、喋れないんでしゅかー?」
キリがない。
「お花しゃーん、お返事してくだしゃーい」
終わらない。
〈ばぶー〉
このまま日が暮れても困るので、私が声色を変えてアテレコすることにした。
「お花しゃん!ばぶーだって!赤ちゃんだ!」
娘は私の方を真っ直ぐ見つめた。キラキラと目を輝かせていた。私はその瞳のあまりに澄んだ、あまりに嬉しそうな様子を見て、胸が温かいような、しかし苦しいような、不思議な感覚を覚えた。恋心にも似たそれを、親心とでも言おうか。いや、親馬鹿心とでも名付けた方がずっと正しいだろう。
「お花しゃんの赤ちゃん、ママはどこでしゅか?」
花との会話はまだ続くようだ――。

 空はよく晴れ散歩日和。窓を開けると、四月の涼しくも心地好い風がさらりと吹き込んでくる。その日は日照りよく、あたかも初夏を思わせるような陽気だった。世界的な新型ウイルスの流行で、世間のほぼ全ての人が心廃れていることなど、すっかり忘れてしまいそうになるほどだった。
「今日すごく天気いいね!お散歩行こう!」
二歳の娘を誘うと、
「やったあー!!」
両手で万歳をして喜ぶ。
「いえい!いえい!いえーい!!」
すごく喜ぶ。
「おしゃんぽ〜♪行っこぉ〜う♪」
オリジナルソングを歌い出すほどだったらしい。先述したような世界の状況下、世間では外出自粛が叫ばれている。そのため、いくら天気の良い日が続いても、さすがに毎日外出するのは気が引けてしまう。よって散歩の回数も、数日に一度に減らしているのだ。
「娘ちゃん、今日公園行きたい!」
光り輝くようなツヤツヤの笑顔をしている娘。
「公園かぁ……いいよ、行こう」
「やったねー!」
どれほど嬉しかったのか、娘は謎のダンスを踊り始めた。お尻をふりふりしている。
「お母さん、息子くん見ててくれるかな?」
私は母に声をかける。そう、ここは私の実家。私と子供たちは一時的に、自宅の隣の市にある実家に帰省していた。なぜなら夫が海外出張から帰国し、新型ウイルス保有の危険性があるため、二週間の自宅待機を行っているからだ。一緒に自宅にいては、私も子供たちも自宅待機せざるを得なくなる。何かあった時に外出できないことや、日用品の購入にも行けなくなること、そして何より子供たちのストレスを懸念して、この二週間のみ帰省することとしたのだ。
「いいよ、二人で行っておいで」
母は快諾してくれた。
「息子くんは今度、近くをお散歩する時行こうね」
私は、自分のおでこを十ヶ月の息子のおでこに当てて話す。今日は娘に合わせて、二人だけでたくさん走り回って遊ぼうと思い、息子にはお留守番をお願いした。
「だっだっだっ」
お座りしながらニコニコしている。私は身なりを整え、買っておいた飲み物とシャボン玉、ハンカチなどをリュックに入れて背負う。時計を見ると九時半だった。
「行くよー」
「はーい!」
とても機嫌のよい声で返事が聞こえた。私は布マスクをつけて帽子を被り、娘にも布マスクをさせ帽子を被せ、玄関で一緒に靴を履く。
「お砂場も!」
娘の靴履きを手伝っているとそう言われ、玄関先に置いていた砂場セットも持つ。
「行ってくるねー」
私が発すると、
「行ってきまーしゅ!バイバーイ!ちゃんと帰ってくるからねー!遅くならないようにしゅるから、しゃみしくないよー!大丈夫だよー!」
娘は息子を気にかける言葉を連ねながら、外出の挨拶をしていた。

 繋いだその左手は小さく柔らかい。それでもしっかりと私の右手を握り返している。マンションを出て、道路を右に行く。この道を直進すると公園に着く。大人の足でも徒歩十三分はかかるので、娘と歩くと最低でも二十分はかかるだろう。本当はもう少し近くに広くて遊びやすい公園があるのだが、そこはとても人気があり、人が多すぎてしまう。この世界の状況下でそれは危険であるため、人の少ない二番目に近い公園を利用しているのだ。息子の体が少し弱いため、避けられる危機は避けたい。そう考えてのことだった。だが、公園までの道のりは完全に住宅街。立ち並ぶ家々、マンション、家々、アパート、家々。道中の娯楽はほぼない。先日も同じ公園に行った時、娘は道中つまらなかったようで、途中でぐずぐずしてしまっていた。抱きかかえて連れていったものの、帰りは完全に抱っこであった。なお、娘は身長が高いこともあり、体重は十七キロある。この重さを十三分間、抱きかかえつつ歩き続けるのは、中々の重労働であった。果たして今日は無事に辿り着けるのか……私は少しばかり不安な気持ちで歩みを進めるのだった。
 最初の交差点、大して広くない路地同士が交わる交差点を過ぎてすぐ、娘が口を開いた。
「あ!かわいいお花しゃん!」
住宅街の家の花壇に咲く、白い花々を指さしている。マーガレットだろうか。ここで冒頭に戻る。娘は執拗に花に向かって赤ちゃんであるか否かを問い、赤ちゃんであると判断すると、今度はその花のママはどこかと尋ね始めたのだ。
「お花って、どの花がパパ、どの花がママじゃなくて、みんなパパとママなんだよ」
と、私が説明を試みる。すると、
「違う!この花がママ!」
そうきたか。現実の事実関係の話ではなく、大きさの話をしたかったようだ。一番大きい花がパパ、比較的大きめな花がママ、小さな花が赤ちゃん、という設定にしたいように見受けられた。
「ママいたんだね、よかったね」
私は娘に返事をした。
「よかったね、赤ちゃん、迷子じゃないね」
娘は赤ちゃんの花を宥めるかのように、優しく話した。
「それじゃあそろそろお花さんにバイバイしようね」
「お花しゃん、バイバーイ!」
しかし娘は歩き出さない。先ほどまで話しかけていた花々の方を、黙って見ている。少しして口を開いた。
「お花しゃん、バイバイは?」
そこまでしなければならないのか。私は声色を変えて口を開いた。
〈ばぶー〉
娘は進行方向に向き直し、少し笑った。
「ふふっ、赤ちゃんだから、ばぶーしか言えないんだ」
そして三歩進む。
「あ!お花しゃん!こんにちは!」
今度は黄色や紫のパンジーたちに声をかける。
〈こんにちは〉
私は今度はパンジーの役についた。少しでもこのやりとりを短縮するべく、間を置かずにささっと返事することにした。
「ママはいましゅか?」
また花のママを探している。
〈いますよ〉
「どこでしゅか?」
わからない。どの花も同じくらいの大きさに見える。なんて難易度の高い質問なんだ。だって答えは娘の頭の中にしかないぞ。うーん……。
〈ここですよ〉
私は言いながらパンジーたちの中の一輪を指さした。
「違う!ママはこっち!」
やはり娘の頭の中には答えがあった。
〈バレちゃったー。それじゃあくるちゃん、気をつけて行ってね。バイバーイ〉
先手を売ってパンジー側から別れを告げることにした。
「バイバーイ」
この作戦で行けば会話を随分短縮できるのではないか?その前に、また三歩進んで止まって会話する、その流れは避けた方がいい。そんなんじゃ公園に着く頃には日が暮れてしまう、それどころか日付が変わってしまう可能性もある。何か周りに気を引くものは……無い。家かマンションかアパートしか無い。さすがは住宅街。行けども行けども住宅しかない。仕方がないのでもう少し先の別の家に注意を逸らすことにした。
「見て見て、あっちに、たくさんお花があるお家があるよ」
「本当だ!行こう!れっちゅー……ゴー!」
私が誘った家まで、娘はきちんと歩みを進めていく。また次の交差点沿いに建つその家には、花壇一面に芝桜が咲いていた。
「わぁーしゅてきねー」
娘が芝桜を素敵だと褒め称える。
「お花しゃん、こんにちはー」
また会話を始める。
〈こんにちは〉
「お花しゃん、何してるんでしゅかー?」
〈日向ぼっこしてるの。娘ちゃんは?〉
「公園行くんでしゅ」
〈早く行くといっぱい遊べるよ。気をつけて行ってね。バイバーイ〉
早々に会話を切り上げる。
「バイバーイ」
娘は花に手を降って、また進行方向へ向き直した。
「早く行くといっぱい遊べるって。早く歩いて行こう!」
私は改めてその言葉を娘に伝える。
「うん、わかった」
また交差点を越えて少し歩くと、また別の家のカーポート前で娘が立ち止まった。しゃがみこんで地面を見つめている。アリが数匹歩いていた。
 私はここでひとまず携帯電話を確認した。地図アプリを開いて、あとどれくらい距離があるのかを確認する。まだ半分も進んでいない。実家から公園まで、ほぼ等間隔に交差点があるが、その数は八つ。既に越えた交差点は二つ。八分の二、つまり四分の一。あと三回これを繰り返すのか。気が遠くなりそうだ。何か良い方法は無いものか。
 私がぐるぐるかんがえていると、娘が声を発した。
「アリしゃん、こんにちは」
案の定である。
〈こんにちは〉
「どこに行くんでしゅか?」
〈お家に帰るんです〉
「お家はここでしゅよ」
〈ありがとう。バイバーイ〉
「バイバーイ」
会話を終えてまた進む。見渡す限り、これから先少しの間は花壇が無さそうだ。多分止まらずに行けるだろう。それにしても、様々な物に話しかけるその様子はとてもかわいい。かわいいのだが、みるみる時間が過ぎていく。
「娘ちゃん」
一度娘と対話を試みることにした。
「なーに?」
「このままみんなに話しかけて行くと、公園で遊ぶ時間が無くなっちゃうんだ」
「えー!しょれは大変!」
両手で両頬を抑え、驚いたように目を見開いて言う。娘のよくやるリアクションの一つだ。
「そう、大変なの!だからこの後は、お花さんたちにもアリさんたちにも話しかけずに、公園に行こう」
「うん、わかったー」
わかったらしい。わかったなら良いか。
「じゃあ、いしょげっ、いしょげっ」
急げ急げと娘は言って、そのまま走り出そうとした。繋いだ手が引っ張られる。
「走らなくてもいいよ、安全第一。けがしないように気をつけて行こう」
娘はちょっと残念そうな顔をしながら、
「はぁーい」
と返事をして、再び歩き始める。私はここで某有名アニメ映画の散歩の歌を歌い始めた。娘も一緒になって、歌いながら歩く。この歌を歌って歩くと思い出す。丁度一年前くらい、娘が二歳になる手前ごろのこと。
 娘が手を繋いでくれなくなってしまった。当時、保育園の遊びの一環で、この歌が流れたら友達と手を繋ぐという、その場のノリというか、ある種のお約束というか、とにかくそういったものがあった。そのおかげで、この歌を歌っている間だけはちゃんと手を繋いで、ちゃんと歩いてくれたんだよなぁ。お腹に息子がいて、もうすっかり大きくなっていた頃だったから、娘を抱っこしながら歩くというのは厳しいものがあった。なので、家とバス停の間を歩く時、店屋に買い物へ行く時、公園へ行く時、またそれらの帰りも、何度も何度も何度も歌い続けた。恥ずかしいなんて言ってられなかった。それにしても、まだたった一年前のことなのに、こんなきっかけが無いと思い出さなくなってしまったんだなぁ。どこかにこんな些細な思い出を、書き留めておけたらいいのかな。
 そんなことを考えながら歌っていると、交差点を二つも越えていた。中間地点だ。気づくとしっとりと汗をかいている。今日は本当に暖かい。
「ママー、喉乾いたー。飲み物くだしゃい」
「いいよー」
私は娘を道のできるだけ端に立たせた。リュックから子供用に買っておいた麦茶のペットボトルを取り出し、キャップを開け、飲ませる。娘もずいぶん汗をかいていたので、ひとまずハンカチで顔周りや首元の汗を拭ってあげた。
「今公園までの道半分歩けたみたい」
娘が私の顔を見上げている。
「あと半分がんばろう」
娘はにっこり笑って、
「がんばろー!えい、えい、おー!」
拳を天へと突き上げる。そしてまた再び歩き出す。すると、歩きながら娘が口を開き始めた。
「娘ちゃんねー、ママとおしゃんぽしゅるの、だいしゅきなんだぁ」
ママとのお散歩大好きなのか、そうかそうか。
「嬉しい!ありがとう。ママも娘ちゃんとお散歩するの、大好きよ」
娘の言葉は続く。
「娘ちゃんねー、ママと公園行くの、だいしゅきなんだぁ」
ママと公園行くの大好きなのか、そうかそうか。
「ありがとー!ママも娘ちゃんと公園、大好きよ。だから、今日も公園行くのとっても楽しみ」
娘の言葉はまだ続く。
「娘ちゃんねー、ママがだーいしゅきなんだぁ」
「ママも娘ちゃん大好きだよー」
「娘ちゃんねー」
どうやら、道端の物に声をかける代わりに、今度は私に声をかけたいらしい。正直私としては、既にいっぱいいっぱいである。暑さの中、子供を気にかけながら歩きつつ、先ほどまでは何分間も歌い続け、私の体力の消耗は中々に激しい状態だ。しかしながら、たしかに私に話しかけるという方法は合理的だ。立ち止まる必要はないし、喋りたい欲求も満たされる。しかも話している内容が内容だ。すべて私への大好きの告白。止められないし、止める気にもなれないし、それ以前に止める必要もない。私は娘には申し訳ないが、半分思考を停止させながら返答を続けた。ありがとう、そうなんだ、嬉しい、ママもだよ、大好きだよ――。
 また一つ交差点を越える。あと三つだ。ここに来て、娘がなんだかしおらしく、くねくねし始めた。
「ママー」
お願いごとがあるようだ。わかりきっている。
「抱っこしてくだしゃい……」
そうだと思った。私は娘を抱っこした。十七キロの重みを私の腕に乗せる。私のペースで進めると思えば、これはある意味好機だ。さっさと進んでしまおう。
「ママ、あのねー」
「なに……?」
息が切れる。十七キロを抱えつつ、ペースを落とさぬよう歩き、さらに声を発するのはきつい。その上、この初夏のような暑さに、体温三十六度程度のものと密着している。汗が湧き出る、それとともにエネルギーも流れ出るようだ。
「だいしゅきだよ、ぎゅー」
私にしがみついている、その腕の力が強まる。かわいい、私も大好き。言いたいことや応えたい気持ち、たくさんあるが、
「あり……がと……」
これが私の限界だ。なんて無力な母だ。それでも私は気合いで交差点を二つ越えた。このまま公園まで行くのは、さすがに無理だった。
 「あっ!公園だ!」
 私の腕から降りた娘が言う。遠目に公園の木が見えて、嬉しそうにしている。
「やった!やった!」
その場で飛び跳ねながら喜びを表現している。あなたのママにはもうそんな力は残っていないよ。
「あっ!たんぽぽしゃん!」
道端のたんぽぽを見つける。
「たんぽぽしゃん、こんにちは!娘ちゃん、公園行くから、バイバーイ!」
とうとう公園の場所が視認できたおかげだろうか。花に声掛けはしたものの、自ら話を切り上げて行く。偉いぞ。よくやった。そのままさくさく歩みを進め、とうとう公園にたどり着いた。
「着いたじょー!やったぁー!」
娘は歓喜に震えた後、真っ先にカバの形の遊具の元へ行った。カバの口と背中が開口部になっており、口から入って背中から顔を出せるようになっている遊具だ。出る時は口に戻って出る。カバに食べられて、体内に少し留まって、そして吐き出される。正直私には何が楽しいのかわからないのだが、この公園での娘の最大のお気に入り遊具である。
「カバしゃん、こんにちは、何してるんでしゅか?」
もう公園に着いたしな、と思って、私は声色を変えてカバにアテレコする。
〈こんにちは、娘ちゃんが来るの待ってたよ〉
娘はその後、象の滑り台へ向かう。
「象しゃん、こんにちは、何してるんでしゅか?」
〈こんにちは、娘ちゃんが来るの待ってたよ〉
そう答えていたら、娘は花壇の方へ行ってしまった。
「お花しゃんたち、こんにちは、何してるんでしゅか?」
私が娘をゆっくり追いかけて行っている間に、
「石しゃん、こんにちは」
今度は石にまで話しかけ始めた。娘のおしゃべりはまだまだ続く。

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