見出し画像

「星に願いを」



 大阪府枚方市は七夕伝説ゆかりの街として知られている。
 枚方市駅のすぐ近くを流れる一級河川の天野川は、天上の天の川になぞらえ平安歌人によって七夕にちなんだ数多くの和歌が詠まれた。
 現代でも七夕イベントとして枚方七夕まつりが毎年開催され、七月七日には街中が色とりどり短冊と地元民で埋め尽くされる。

 当時、僕は枚方市に隣接する寝屋川市に住んでいたので枚方の七夕まつりを目にすることがあり、その日も用事で枚方市駅に降り立つと、歩道沿いに短冊のくくりつけられた沢山の笹竹が並んでいた。
 すでに二十歳を超え短冊に願い事を綴るなど遠い過去の出来事となっていた僕は、ほっこりとした懐かしい気持ちで飾り付けられた短冊を手に取り、地元の子供達がどんな可愛らしい願い事を書いているのだろうと覗き込んだ。
 僕が手に取った短冊にはまだ小学生らしき文字で、「福岡に引っ越してもクラスメイトが僕のことを忘れませんように」と、あまりにも切なすぎる言葉が綴られていた。
 それはもはや願いと言うより、祈りに近いような言葉だった。

 軽い気持ちで短冊を手にしたことを後悔するほど居た堪れない気持ちになり、待ち合わせしていた友人にも「なんかお前今日テンション低いな!」と指摘された。
 僕には経験がないが、小学生の引っ越しというのはきっと大人には計り知れない苦痛であろうとは想像できる。なぜ友人と別れなければいけないのか、どうして大好きなあの子に会えなくなってしまうのか、新しい環境でどうなるかなど保証はなく、自らの世界を強制的に閉じられ闇の中に放り込まれる恐怖を感じるだろう。
 そんな不安の中で、七夕の短冊に小学生はわずかな希望を託したのかもしれない。

 ただそうやって短冊に願いを込めるということは、きっとその小学生がクラスメイト達とかけがえのない時間を過ごせていたからである。もし不遇な時を過ごしていたならば引っ越しは救いになって、短冊には未来に対しての願い事が綴られていた筈である。
 短冊にそっと願いを偲ばせるぐらいだから、その子はあまり目立つような子供ではなかったかもしれない。運動会やクラス発表会で先陣を切ってクラスをまとめあげたり、リレーのアンカーや演劇の主役を務めてヒーローになるタイプではなかったのだろう。でもそうやって活躍するクラスメイトを見て、一緒に戦った仲間として同じ喜びを共有できる素晴らしい子供だったに違いない。

 数は多くないだろうがクラスの中には信頼できる特別な友人もいて、休み時間に過ごす場所は教室の隅っこだったかも知れないが、彼らにとってそこは紛れもなく世界の中心だった。
 クラスの中に好きな女の子はいただろうか?自分ではないスポーツ万能な男子生徒を見つめる、彼女の微笑むような横顔と潤んだ瞳に、成就することのない不器用な恋心を抱いていたのかな。自分が好きだと思える人がこうしてクラスメイトとして笑ってくれている、きっとそれだけで十分だったのだ。

 しかし子供は純粋であるがゆえに残酷な存在でもあり、どんなにかけがえない素晴らしい瞬間であっても時の流れと共に簡単に忘れていく。
 涙で別れ、また会おうと約束しても、日々積もっていく日常の中に埋もれてしまう。
 学年が上がり、クラスが変わり、新たな友人が増え、好きな人まですぐに更新されていく目まぐるしさの只中で、引っ越した元クラスメイトを変わらずにいつまでも覚えておくことなど小学生には不可能なのかも知れない。

 福岡に引っ越しをした小学生の本人でも、きっと新たな学校生活が楽しいものだったら忘れてしまうだろう。世界が更新されてしまえば引っ越す前の生活は過去ではなく、もう別の世界での出来事になってしまう。
 それは決して悪いことではなく、大人のように必要な情報や記憶だけを取捨選択することが困難な子供にとって、日々流れ込んでくる膨大な情報や記憶を忘れていくということは自然であり必要な作業である。
 僕が何気なく手に取った短冊に綴られたあの祈りの言葉でさえ、数年後には書いたことすら本人が覚えていないなんてこともあるだろう。

 それなのに何故か短冊を手に取って二十年以上が経過した今でも、部外者の僕だけが一部も忘れずにしっかりと覚えているのが不思議である。
 ちなみに短冊の色は黄色だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?