ショートショート「浮気」
雅子は落ち着かなかった。
薄汚れた応接間で待たされている間も、冷たい手で心臓を掴まれるような感覚に襲われていた。
「お待たせしました奥さん」
男はくたびれた黒のスーツを着ていたが、胸元の開いた白いワイシャツからは綺麗な鎖骨の窪みが見えていた。
「今回、旦那さんの浮気調査の依頼を受け、こちらで一ヶ月間内偵した結果をお伝えします」
男はA4サイズの茶封筒をテーブルに置き、雅子の向かいのソファーに腰掛ける。男の言葉を聞いた瞬間、雅子は自分が何故ここにいるのか分からなくなった。旦那の浮気を疑い探偵に調査を依頼したはずなのに、その結果を知るのが怖かった。
このまま何も知らない振りをして、今まで通り慎ましい幸せの中で生きていくことの何が悪いのだろうか。なんでこんな余計なことをしてしまったのかと、自分に腹が立った。
「奥さん大丈夫ですか?旦那さんの鞄から女物の腕時計やアクセサリーが出できた件なんですが」
そうだ、旦那は浮気をしているのだ。
疑うなんてレベルの話ではない。週に2度ほど極端に帰りの遅い日があり、理由を聞いてもあたふたと言い訳をするばかり。鞄からは時計やアクセサリーだけではなく、女性用の下着だって見つけた。ワイシャツに真っ赤な口紅が付着してたことさえある。もうこのままそれに気づかぬ振りをして生活を送ることはできない。
精神が崩壊して、最後には狂って死ぬか殺すだけなのだ。だけど・・それでも・・そんな風に思ってしまう、どこまでも女な自分と決別する為にここにいるのだと雅子は下唇を噛んだ。
ふと、この緊張感は何処かで感じたものだと思った。それが結婚前に自分の親への挨拶に旦那が来てくれた時だと気付いた時、なんだか決心がついた。
「お願いします」雅子は探偵の男の目をしっかりと見据えた。
「調査の結果、旦那さんの浮気は認められませんでした」
男の発した言葉を理解するのに雅子は数秒かかり、まるで言い訳を探すようにあたふたした。
「そ、それじゃあ旦那の鞄に入っていた女物の時計やアクセサリーは何だって言うんですか!?」
「あれは、旦那さんが満員電車の中で盗んだ物です。旦那さんは女性にぶつかった一瞬で腕時計をかすめ取る技術を持った、天才的なスリ師です。あれはスリが生活の一部になっている人間の動きでしたよ」
「で、でも、女性用の下着も入ってたじゃないですか、下着まで気付かれずに盗んだと言うんですか!?」
「あれは、旦那さん自身のものです。心配しないで下さい、ただ女装という新鮮な感覚を楽しむだけで、ストレス発散の行為です。週二回そんなお店で働いてる様子でしたね」
探偵の男は、にこやかな笑顔を雅子に向けながら口を開いた。
「安心して下さい奥さん、旦那さんは浮気なんてしていませんでしたよ」
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