男の料理の境界線
一人暮らしの男が集まると、家でどこまで料理をしていいのかという議論が交わされる事がある。
女性からすれば「どこまでだっていいじゃない?料理が出来る男性の方が素敵だわ」という感じだろうが、男は皆「それを一人で作っちゃもう終わりだよ」というよく分からない、プライドと呼ぶにはあまりにもくだらない感情のしこりを抱えている。
お惣菜のコロッケとアジフライで米をかき込むことには抵抗を感じないが、ロールキャベツとコーンスープとアボカドサラダを一人で作って食べることには、侘びしさや切なさを感じてしまう、どうしようも無い生き物なのだ。
ある男は多少手が込んでいても、主食として作る料理だったら許せると主張した。確かにパスタやチャーハンやカレーなどは、食材や調理にこだわって作っていても何も感じない。
更に言えば一人で鶏ガラと豚骨を寸胴で煮込み、ラーメンをスープから作っていると言われても時間を無駄にしている感じがない。そのこだわりが、いつかこの男を大成させるのではないかという予感すら感じさせる。
しかし、その主張を聞いた違う男の「だったら俺はこの前一人でオムライス作りましたよ」という発言で、主食なら手が込んでいてもOKとなりかけていた議場の空気が一変した。
「オムライスは本当に大丈夫なのか?」
「卵を一人でふわふわにさせてる男はキモくないか?」
「単純にオムライスは自分で作らないで彼女に作ってもらいたい!」
男達の沈黙は、そんなオムライスに対する熱い想いを代弁していた。
その後三十分ほど議論が交わされた結果、「米を卵で包んじゃいけない」という結論に達した。
たとえ米をどんな具材と一緒にフライパンで炒めたって構わない。でも、炒めた米を卵で包んじゃダメ。
薄暗い部屋で男が一人キッチンに立ち、米を卵で包んでいる姿を想像すると「あなたは本当に米を卵で包みたいのですか?」「本当はあなた自身が、誰かの愛情に包まれたいと思っているんじゃないですか?」と、後ろからそっと声をかけたくなってしまう。
そんな憂いを帯びた空気に議場全体まで包まれてしまった。
「おれ、ソース味のもん食べたくなって、この前お好み焼き一人で作ったんだけど」
この発言に関しては、議場にいる男全員が言葉を失った。
一人でどこまで料理をしていいか、その境界線を見極めようという会議の中で、この男は境界線を跨ぐどころか全力疾走で駆け抜けて行ったのだ。その背中は一瞬で遠く霞んでしまい、誰も声をかけられずにいた。
家で一人で作るには、お好み焼きはパーティー感が強すぎる。一人で作っている間に、あの時誰かと作ったお好み焼きの思い出が蘇ってしまう。
「その思い出は今でも鮮明でさ、ひっくり返したお好み焼きはいつだってスローモーションで、崩れることなく綺麗にホットプレートの上に着地するんだ。
本当は、そんなに綺麗なものじゃなかったのにね….」
思わずそんな感傷に浸ってしまいそうになる。
では我々はどうしたらいいんですか?お好み焼きを一緒に作ってくれる誰かも、二人でお店に行ってくれる誰かもいない場合、この欲求を一体どうやって解消したらいいのでしょうか?
核心を突くような、振り出しに戻ったような、そんな発言を誰かがした。
それはもうあきらめるしかないよね。
例えばそれを一人で解消出来てしまったら、そこでもう完結してしまう気がするな。一人で作れるし、そこそこ美味しく出来た。じゃあ最悪このままでもいいんじゃないかってなっちゃうよ。
それって慣れちゃってるだけだもんね。そう考えると、そのあきらめるって行為はあきらめないってことなのかもしれない。
結局は一人で何を作るかの問題ではなく、一人で何を作ったとしてもそれに満たされたり、慣れてしまうことが問題なのだと気づいた。
僕らはいつだって少しの憂いや、畏れや、痛みを抱えていなければならない。
だからこそ、そこに希望は生まれるのだ。
夜中にくだらない議論していた僕らは間違っちゃいない。
男達は皆それぞれの家に帰り、ぞんざいな飯をかき込み、満たされた振りをして眠り、分かち合う事を夢見ながら、胸焼けした朝を迎えるのだ。
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