ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑧

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第3章は胡蝶輿入れ後から岩倉城の戦いまでの尾張統一を描きます。時期は1章と2章の間になります。信長さんと胡蝶さんの苦難の道のりです。いわば、ベンチャー企業の産みの苦しみです。今川氏に仕掛けられて対応しているので、どうしても、戦略より受け身対応になります。


第3章 尾張統一
  ~弱者の生存戦略~

第2節 失敗を失敗で終わらせない・平手政秀の死

 1552年9月、清州織田家でそれは起こった。
 清州織田家は弾正忠家から見て主家にあたり、守護の斯波氏を擁している。当主は織田信友だったが、実権は又代の坂井大膳が掌握していた。又代とは、守護代の家臣を指す。その坂井大膳が、坂井甚介・河尻与一・織田三位と共謀し、弾正忠家の支配下にあった松葉城と深田城を急襲し、松葉城主の織田伊賀守と深田城主の織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を人質としたのである。これが萱津かやつの戦いの始まりである。

 この報告を聞いた信長は直ちに全軍に招集をかけた。赤塚の戦いで十分な兵が集まらなかった事に不満があり、次のように言った。
「全軍に招集をかけよ。加えて、守護、主家の大事に何も出来ぬなら知行を返上させると伝えよ」
 「主家の大事だいじ」その上、守護・斯波義統しば よしむねの大事である。この大義名分に逆らうようなら、家臣とは認めないという意思表示である。
 信長は大義名分をとても大事にする人である。御恩と奉公。或いは、相手の窮地を助けなければ、自分の窮地に助けてもらえない。当たり前の事を敢えて言葉にしたのだ。

 守山からは織田信光(人質となった信次の兄で、信長の叔父)が駆け付けた。弟・信行の配下からは柴田勝家が合流した。柴田勝家は、このまま弾正忠家を割ると、仮に信行が弾正忠家の跡を継いだとしても先が無いと判断したようである。
 信長は部隊を松葉口・三本木口・清洲口の三つに分けて進軍した。
 清州城からも坂井甚介を大将に迎撃に出ていた。両軍は萱津(海津)で激突した。激しい戦いの末、坂井甚介が中条家忠と柴田勝家に討ち取られた。それを機に信長軍は深田城・松葉城に押し寄せると、坂井軍はこれらの城を放棄して清州城に逃げ込み、籠城した。
 信長は清州城も落としたかったが、守護・斯波義統しば よしむねが城中に居た。清州城は守りの堅い城である。また、無理攻めをして守護を死なせるリスクがある。不本意ながら、一旦、撤収する判断をした。
 そのため、今後、今川氏と戦う時、坂井大膳が織田軍の背後を襲う可能性が残ってしまったのであった。
 なお、この戦いが前田利家の初陣であった。

 首実検、論功行賞を終えた翌日、信長と胡蝶は平手政秀の屋敷に居た。
「姿を見なんだな。政秀」
 平手政秀をはじめ、その二人の子も顔をそろえていた。
「守役の政秀が居らねば、恰好かっこうがつかんぞ」
「申し訳ございませぬ」
 平手政秀は只々恐縮していた。
「全軍に下知げちした事を聞いておらぬとは言わせぬぞ」
「申し訳ございませぬ」
「他の者に示しが付かなくなるではないか」
「申し訳ございませぬ」
 信長としては、育ての親同然の平手政秀を罰したくはない。しかし、参集せぬ者を認めぬと公言した手前、引くに引けないのである。戦国時代は体裁を重要視する時代である。体裁を守る為に戦をし、体裁の格付けを認めさせるために戦をするのである。
「如何したものか」
「申し訳ございませぬ」
 何を言っても、政秀は「申し訳ございませぬ」を繰り返した。
「政秀殿、私をここに連れてきたのは政秀殿ですよ。何か言う事は無いのですか」
 胡蝶も静かに言った。あまりにも感情が籠っておらず、却って平手家の3人には恐ろしく響いた。そして、重い沈黙があたりを覆った。

 この沈黙を破ったのは胡蝶であった。
「信長様、政秀殿と二人で話をさせていただけませんか」
「良かろう」
 そう言うと、信長はゆっくりと立ち上がり、政秀の3人の子を連れて外へ出て行った。
「武具や馬を見せよ」
 3人の足音が遠ざかり、遠くで信長の声が聞こえた。

 部屋の中の声を聴く者はいない事を確認すると、胡蝶は平手政秀に向き直った。平手政秀は、頭を下げたまま上げようとしない。
「これは私の独り言です」
 そう言うと、胡蝶は勝手に語り始めた。
「もし、今回も赤塚の戦い程度にしか兵が集まらない場合、信行殿が背後から信長様の軍を襲ったかもしれません。あるいは、私を・・・。
 幸いにして勝家殿、信光殿が合流された故、謀反には至りませんでした。こちらに大義がありましたからね。
 それでも、今回も信行殿、秀貞殿は参陣されませんでした。どうも、秀貞殿は私に怨みがあるようですね。加納口の戦いで親戚やらご友人やら多くを亡くされたと聞いています。斎藤家の私が正室である事が、本当にご不満のご様子。
 万一、ここで秀貞殿が謀反を起こされたなら、少なくとも私の命はなかったでしょう。さすれば、今度は私の父上を相手に戦となりましょう。今、「海道一の弓取り・今川義元」と「美濃のマムシ・斎藤利政」を同時に相手にすれば、たとえ尾張の織田家全てが束になっても織田家は全滅するでしょうね。だから、織田家の為に、嫌でも私を守る必要があったのですよね。
 恐らくは赤塚の戦いの時も同じ理由で参集しなかったのではないですか?

 それに今回、清州城を落とす事はできないと予想された。清州城は堅固で、無理に攻めてもこちらの被害が大きくなる。それに信長様は大義を大事にするお方。守護殿を見殺しにしてまで城攻めはされますまい。となると戦の後、清州城に敵が残る。
 もし、信行殿も秀貞殿も参集されなかったから、と言って、罰を与えるような事をすれば、弾正忠家を割ることになります。背後に坂井大膳の軍を抱えて、信行殿・秀貞殿といくさをする事になります。多分、勝家殿も次は信行殿につくでしょう。さすがの信長様でも、これでは勝ち目がありません。
 とは言え、『うつけ殿』相手に我慢しろと言いたくても言えない。ご自分の口から育ててやった恩義を感じろとも言えませんしね。言えないけれども、今までの関係を考えれば、少なくとも躊躇ちゅうちょくらいはすると読んだのではありませんか?実際、とても躊躇していますし・・・。
 政秀殿を罰する事がなければ、信行殿たちを無理に罰することはできない。そうなれば織田家を割る事もない。そう期待したのでしょう。
 ・・・どうして男衆は、・・・本当に面倒な方々です」
 胡蝶はここで大きくため息をついた。

 平手政秀は信長の窮地を息子達には説明できずにいた。それなら信行につきましょうと言いかねない状況だからだ。
「政秀殿の諫言を信長様が聞き入れた事に致します。信長様には、そう言い含めます故。良いですね」
 そう言うと、胡蝶はゆっくりと立ち上がった。平手政秀は気配を察して、ふっと胡蝶を見上げた。その顔に不安の色は見えなかった。そして、一瞬、目が合うと再び伏した。それを見て、胡蝶は、黙って信長の声のする方に歩いていった。
「信長様をよろしく頼みます」
 平手政秀の震える声が背後で聞こえた。

「良い馬ではないか。わしにくれないか」
「承諾致しかねます。この馬は信長様に奉公するために必要です。そもそも信長様にこの馬が必要になるような事にはさせませぬ。お任せくだされ」
「ははは。良く言った。頼もしい限りだ」
 いつの間にか信長は上機嫌になって平手兄弟と談笑していた。そして、胡蝶が近づいてくるのに気が付いた。
「話はついたか?」
「はい。あとは信長様と話をつけるだけです」
「えっ?」
 胡蝶の推測が、平手政秀の意図を言い当てていたか分からない。しかし、二人が那古野城に戻った後、平手政秀はとても機嫌が良かったという。

「戦の準備を怠るではないぞ」
「はっ」
 その後の平手家では、平手政秀の声が大きく響いていた。そして、戦の準備が一層活発に行われるようになった。
「わしも何かせねばなるまい」
 本来、風流人である平手は剣術が苦手である。
「やはり、鉄砲かの」

 1553年2月、信長の元に急報が届く。
「何事か?」
「不慮の事故にて平手政秀殿が亡くなられました」
「何と・・・」
 信長は言葉を失った。
「何があったのですか?」
 胡蝶が冷静を装いながら、小姓に聞いた。
「政秀殿が鉄砲の訓練をしており、暴発したとの事です」
 信長と胡蝶が平手家を訪れた後、政秀はこっそりと家老の山田と平手家の領地である志賀村へ行って火縄銃の練習をしていた。そこで事故を起こしたのであった。
「信長様、とにかく屋敷に行きましょう」
「おっ、おう」
 移動時間は二人にとって落ち着くための時間になった。二人が屋敷に着いた時、家人たちは落ち着きなく、バタバタしていた。それ程に事故の影響は大きかったのだ。二人が門の前に着くと、政秀の子、平手家嫡男・五郎右衛門が迎えに出てきた。
「父上が・・・」
「まずは落ち着け」
 信長はそう言うと、五郎右衛門の肩を両手で抑えた。
「原因は何だ」
「火薬の量を間違えたようです・・・」
「平手政秀ともあろう者が、火縄銃の暴発で事故死では格好がつかぬ。切腹した事にいたせ。ご遺体は家人以外に見せぬように」
「はい」
「そうなると切腹の理由を作らんといかんな。何か格好の良い話はないか」
 というと信長は胡蝶を見た。またそういう無茶振りを、と思いながらも思案する。
「やはり信行殿との関係でしょう。実際、織田家の将来を懸念しておられました。ウソにはなりません」
「そうか。・・・それしかないだろうな。それ以外を言っても誰も納得するまいて」
 自分に言い聞かせるように言った。信長としては認めたくない。だが、客観的に見て事実である。

 後日、政秀寺古記には、信長の名の縁起やうつけ時代の記載の後に、こう記される

 (略)機髄・・に候を悪く成らせ給う事、いよいよ頼母敷たのもしげもなく君臣の間も不和に成り行き候へば、諫書かんしょを捧げてより年月工夫せられ、只自害をして三郎殿(信長のこと)に見せ候はば御心をもなをされん給わんと思い定め、(略)、信長が無器用を日頃いさめ候ところ心安く思食し用い給わず候へば、政秀不慮に切腹候事、父備後守にはなれ候よりもちからを落とし候。

政秀寺古寺

 父・信秀の死後、信長はうつけの振りをする必要はなく、真面目にまつりごとを行っていた。だが、いくさの判断は優れていても、慣れない政治の判断では臨機応変(隋機・・応変)な対応ができていなかった。政治方面は、本人が自覚するほどに不器用だったのだ。
 胡蝶らの意図は、こうした背景による家臣との不和に対する諫書という主旨だった。
 しかし、後世では気随・・(思うまま≒我儘)な行動への諫書と解釈される。文字から言えば、臨機応変の意味で漢字の順序が違う。発音から言えば、我儘の意味だが漢字が違う。後の「信長が無器用」という表現を見れば、本来の意図は前者であると考えるのだが。

 肩を落とす信長に胡蝶がしっかりしろとばかりに声をかける。
「まだ、問題が残っています。事故の原因を除かなくてはいけません」
「わかった。政秀の死を無駄にしてはならんな。だが、まずはしっかりと葬儀を行わなくては」
 信長は寂しそうにつぶやいた。平手政秀は信長と胡蝶の縁を繋いだ仲人である。胡蝶にとっても平手政秀は、織田家の中にあって数少ない味方であった。

 平手政秀の葬儀が一通り終わった夜、信長、胡蝶と平手家兄弟は事故対策を話し合った。
「火薬の入れ過ぎが暴発の原因と思われます」
 五郎右衛門が言うと、弟の甚左衛門が続けて言う。
「火薬の品質がばらついているのです。足りないと思って、多く入れたのかもしれません」
「つまり、火薬によって適切な量が異なるというのだな?」
「はい」
 我慢できずに胡蝶が口を出す。
「不安に思う事があったら、すぐに誰かに相談しなさい。そうすれば防げたかもしれません」
 そして、小さくひとつため息をすると続けて言った。
「とにかく、過ぎた事は仕方ありません。まずは、同じ品質の火薬を作る事を考えなさい。手順を標準化するのです。再現性が大切です。手順は誰が作っても同じ結果になるような言葉にしなさい」
 胡蝶が指示した。モノ作りの世界では当然の事。しかし、たくみと言われる者たちが、口伝と修行でモノ作りをしている時代である。まして、それを管理する経営者が武士であり、正しく管理が出来て当然とは言えない時代である。
 少し考えると、胡蝶はさらに言葉を続けた。
「そして、出来上がった火薬を都度、試験して適切な量を確認するのです。品質管理です」
「試験方法は?」
 甚左衛門が自信なさげに聞いてきた。
「私よりもあなた達の方が詳しいでしょう?考えなさい。経験的には湿気の影響は大きいわよ」
  (えっ?経験的?誰の?)
 胡蝶以外の全員が、その言葉に引っ掛かって胡蝶を見た。だが、お構いなしに胡蝶は続ける。
「それと火薬の品質に合わせて1回分の火薬が入る入れ物を作るの。それで入れる量を間違えないようにするの。しっかりとフタをすれば、火薬が湿気る事もないわ」
 胡蝶は信長が合戦ごっこしている時、こっそり火縄銃を撃っていたのだった。実は、道三直伝で、なかなかの腕前である。
 平手家兄弟は呆気あっけにとられていた。信長も分かってはいたが、少々あきれていた。そして、はっと気が付くと、信長は3兄弟に指示をする。
「火薬の試験方法を早急に決めよ。そして、火薬を1回分の入れ物を多数作らせよ。農民が弾を充填しても失敗する事が無いようにするのだ。良いな」
「はっ」
 そして、ひと呼吸おいて平手兄弟を見ると、信長は続けた。
「政秀は火縄銃の問題点を私たちに教えてくれたのだ。今後、同じような事故を起こしてはならん。政秀の教えを忘れぬよう、政秀にちなんだ寺、政秀寺を建立しようと思う。良いな」
 信長の思わぬ申し出に平手兄弟は感激して、涙した。

 帰路、信長は胡蝶に話しかけた。
「さて胡蝶よ、義父さまは出家されたのだったな?」
「はい。武士としては『斎藤利政』、僧としては法名『沢彦』を使っております」
「政秀寺の開山和尚をお願いしたい」
「頼んでみましょう。政秀殿とは懇意にしておりましたので、断る事はないでしょう」
 胡蝶の輿入れ以来、沢彦(道三)と平手政秀は、たまに茶の湯を楽しむ仲であった。胡蝶には悲しむ父の顔が目に浮かぶようであった。

 事業規模を拡大する前には、「誰でもできる」ように製造工程やサービスの提供手段の『標準化』と『品質管理』が重要である。そして、多くの場合、小さい失敗とその対策を積み重ねて、それらを決めていく。
 一方で、「誰でもできる」という事は、同時に他人に真似されるリスクでもある。これが知的財産や営業秘密となる。知的財産や営業秘密を守りながら、継続的に商品やサービスを提供し続ける『仕組み』が存在して、初めてビジネスとして信頼を得る事ができる。

 大きな失敗は無い方が良い。しかし、大きな失敗も起きる事がある。そんな時は、失敗を失敗で終わらせず、事故を事故で終わらせず、次に繋げる事が重要である。
 大きな事故を経験した企業が、その事故のモニュメント(慰霊碑など)を作るのは、その事故を風化させず、教訓として、組織の経験として引き継いでいくためである。
 信長・胡蝶、そして、平手家にとって、政秀寺はまさにモニュメントなのであった。

(続く)

参考:3章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 姫君の戦国史      榎本秋・安達真名・鳥居彩音・著
 國分東方佛教叢書 第六巻 寺志部(政秀寺古寺) 鷲尾順敬・編

インターネット情報

 Wikipedia


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