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曼荼羅アート的な夢筆の抽象画『自力と他力』


今回の「曼荼羅アート的な夢筆の抽象画」は、仏教用語「自力」と「他力」をモチーフにしています。

大乗仏教で言うところの「自力」は、「自己中心的な価値観や判断力に頼りながら、自らの人生における不安や痛みを乗り越え仏道を進もうとする姿勢」の事を指し、あまり肯定的な意味としてとらえられていません。

(大乗仏教とは自分だけでなく他者も同時に救おうとする考え方で、上座部仏教は修行する事によって自らを高める事を目的としています。

 現代の日本の仏教は大乗仏教が主ですが、どちらが良いとか悪いとかいうわけではありません。

 この説明はだいぶ端折っておりますので、ご興味のある方は本などで調べてみる事をオススメ致します。)


上記の「自力」に対する「他力」は、現在「他力本願」という言葉で「力無き自らを皮肉り、全て他者任せにする」みたいな形で使われる事が多いですが、それは本来の意味とはだいぶ異なります。

そもそも「他力」とは、阿弥陀仏が人々に仏と同じ悟りを得させようとする働きの事です。

阿弥陀仏の他力=本願力とは単に他者の力の事を指すのではなく、信仰する人々の信心そのものの事も指しています。

(阿弥陀仏の本願とは、生きとし生ける者を真実に目覚めさせたいという仏の願いの事。)

つまり阿弥陀仏の願いの力によって人々が疑念や意図や我執を持たない心となり、阿弥陀仏の大慈悲心と共になる事を示しているのだとか。


こんな風に書くと「よく分からん」と思われてしまいそうですが、分かりやすく例えると心臓を動かしたり呼吸をしたりするのが他力の働きと言えるかもしれません。

人が日常生活をしていて自ら「心臓を動かさねば」と思ったり「呼吸をしなければ」と思ったりする事はほぼ無いかと思いますが、それを働かせているものは一体何なのだろうという話です。

自分の意識だけではどうにもならない根本的な事象、みたいな部分ですね。

(これは議論等すると生物学的な話に食い込んでしまいそうなので割愛しますが、自分はこの辺りの話を聞いてちょっとだけ腑に落ちた気がします。)

もちろん今回の記事で「他力本願という言葉を軽々しく使ってはいけない!」とか言いたいわけでは全くなく、本来の意味を知るとまた色々見方が変わってきて面白いかもしれないなぁと考えたところです。



今回も、ご愛読いただき誠にありがとうございます m(_ _)m







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404美術館

中高生の頃より現在のような夢を元にした物語(文と絵)を書き続け、仕事をしながら合間に活動をしております。 私の夢物語を読んでくださった貴方にとって、何かの良いキッカケになれましたら幸いです。