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推し、燃ゆを読んで

ページをめくるたびに流れていくどこか冷静な言葉に、「ああ、私はこの感覚を、この感情を知っている。」、そう思った。既視感と嫌悪感がじりじりと胸を焼いた。
2021年に生きる人間の姿を、時代を、とても簡潔に表していて美しい文章だった。


・現代の推しとファンの関係のひとつの終着点の物語

燃えたことで、浮き彫りになっていく推しという「人間」の姿と、見て見ぬ振りをしてきた自分という「人間」の山積みの問題たち。
肉体の重さや、静脈を流れる酸素が欠乏した黒い血を感じさせる文章が、美しく軽やかなSNS上での自分の姿やステージ上で輝く天使のような推しの姿はその人のほんの一面にすぎないのだと思い知らせてくれる。

・現実世界での人との繋がりの希薄さ

あかりちゃんは推しと話したことがない。推しは自分のことを知らない。SNS上で繋がっている人達が実際どんな人で何をしているかわからない。けれどあかりちゃんは推しが好きで、SNS上で繋がっている人達を信用している。一方で現実世界で会話をする人間である親や姉、バイト先の人、お客さんとは必要以上に関わらない。そういう役割をもった人形というか、ロボットみたいに見ているのではと思うような描写があった。SNS上で血が通った肉体を持っていたあかりちゃんが、現実世界に肉体を引きずり降ろされたときに、その重みに耐えられない様子があまりにも痛々しく苦しかった。

・人間を心の拠り所にする人間

「人間を心の拠り所にするな」、と何度も耳にした。人間は変わる生き物だから、変わるものを拠り所にすると信じていたものと違うとき裏切られたと思ってしまうから。それでも、日々いろんな人達が推しの沼へとはまって拠り所にしていくのを目にする。特にコロナ禍になってからは顕著だったような気がする。なぜ人間を拠り所にしてしまうのだろうか。赤の他人の活動を支えたいと、応援したいと、そのために私も頑張りたいと思ってしまうのはなんなんだろうか。そしてそういうときにしかみなぎってこないあの自分の中の果てしないパワーはなんなんだろうか。その感覚を知っているからか、あかりちゃんの「推しは背骨だ」と断言する姿に、少し羨ましいと思ってしまった。正しいとか間違っているとかは関係なく、羨ましく、そして恐ろしいと感じた。

・変わりゆく推しの姿と、変われない自分の姿

輝かしい舞台の上から下りていく変わりゆく推しの姿と対比するように、なにひとつ変われない自分を見つめる冷静な語り口に、客観性をもった主体性のない姿に、底知れない青春の危うさと脆さを感じた。青春という言葉に果たしていま、文字ができた当時思われていた青さはあるのだろうか。物語の中で推しのメンバーカラーの青が象徴的に出てくるが、終盤は生き生きとした若葉を表すような青さではなく、深海の底のような果ての見えない青さを感じるのは私だけだろうか。浮力を失って落ちていくように、水圧に潰されるように、ただただ沈んでいく姿は想像するだけで悲しかった。

・それでも

それでも、現実世界に降ろした肉体の重みにうずくまってしまっても、たとえ背骨がなくなろうとも、深い海の底に沈もうとも、どうか軽やかな羽を生やして生きていってほしいと願わずにはいられない。そう思ってしまうのは、私自身もまた推しという存在に助けられてきた人間であり、他人事ではないと感じるからなのかもしれない。

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