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近隣散歩2

近隣の公園

今回は、近隣の公園(戸山公園と目白庭園)を紹介させて頂きます。
両公園とも季節に応じ、綺麗な花々を咲かせ、近隣の憩いの場所です。


<< 戸山公園 >>

早稲田大学付近に隣接する新宿区にある都立公園の戸山公園(とやまこうえん)。大久保地区(西側)と明治通りを挟んで、箱根山地区(東側)の2つの場所から成り立っています。

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箱根山地区にある戸山公園は、元々、江戸時代には尾張徳川家の下屋敷があった場所にになります。2代目の藩主・徳川光友によって回遊式庭園「戸山荘(戸山山荘)」が整備されました。

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明治維新後に、戸山荘(戸山山荘)は明治政府に明け渡され、明治6年に陸軍戸山学校が開かれ太平洋戦争終結まで、軍医学校や陸軍錬兵場に利用されていました。

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終戦後、軍事施設は全て廃止され、戸山ハイツの建設が始まり、その敷地の一部が戸山公園になりました。

公園の中には、遊具や緑地スペースなどがありますが、江戸時代当時、箱根に見立てた築山の玉円峰で、標高44.6mの箱根山があります。春先に頂上まで登ると眼下に桜が360°開けた景色が見渡されます。その奥には新宿高層ビルなどが開け、とても風光明媚な場所になります。

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<箱根山地区の歴史>
この地区は、その昔、源 頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と戸山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。寛永8年(1668年)に至り、尾張徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(約448,800余平方メートル)に及び「戸山荘」と呼ばれるようになった。

この「戸山荘」は寛永9年(1889年)に工事を始め、天和(1688年~1683年)・貞享(1684年~1687年)の時代を経て、元禄年間(1688年~1703年)に完成した廻遊式築山泉水庭である。

庭園の南部には、余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り、琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が造られた。

なかでも、小田原宿の景色を模した「街並み」はあたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられる。その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789年~1800年)の初め、第十一代将軍・家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を似て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。

安政年間(1854年~1859年)に入り、再び災害にあい、その姿を失い復旧される事もなく明治維新(1868年)を迎えた。

明治七年(1874年)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。

陸軍用地の頃からともなく、この園地の筑山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが、当時を忍ぶ唯一のものとなっている。「東京都公園管理・説明文より」

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<< 目白庭園 >>

目白庭園(めじろていえん)目白駅からおおよそ400m(徒歩5分程度)。閑静な住宅街を抜けると白い壁に囲まれた庭園が現れます。都市化の進んだ豊島区の中に於いて、緑化された回遊式日本庭園です。

平成2年に建設された公園で、自然に接する場として多くの人々がくつろいでいます。春は「枝垂れ桜」、秋は「紅葉」など季節に応じた花々の鑑賞など楽しめます。

<目白庭園について>
豊島区立目白庭園は、豊島区の都市化、国際化が進む中で、自然に接し、伝統文化を育む場として、平成2年11月に開設されました。

庭の中心に大きな池を配し、周囲に園路を巡らせた伝統的な池泉回遊式の日本庭園です。限られた空間の中に様々な自然の景観を凝縮し、池の周りを巡りながらその風景を楽しめます。

また、庭園内には季節の移ろいを感じられる四季折々の花や草木が植えられているほか、木造瓦葺き平屋建ての数寄屋建築の「赤鳥庵」や六角浮き見堂が配されており、様々な角度から庭園の魅力を満喫することができます。

都会の喧騒から離れ、ゆったりとした時間が流れる目白庭園に、ぜひお立ち寄りください。(参考:目白庭園Web情報より)

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今回は、2つの公園をご紹介させて頂きました。
今後、不定期ですが様々な分野で更新したいと思います。

宜しくお願い致します。

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