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どうすれば「面白い人」になれるの?

前回(正直あまり関連性はない)↓

こんな記事を書き始めておいて何だが、私にも分からない
そんなもん、こんな場末の100万回焼き直されているような情報量皆無クソnote書いてるド凡人にわかるわけねーだろ!!
意識して「面白い人」になれる方法があるなら、とっくの昔に私が使ってるわい!!!

しかしながら、佐渡(仮名)にグチャグチャ言う手前、投げっぱなしも良くないので、ド凡人なりに「(万人受けするタイプの)面白い人」について考察していこうと思う。

さて、面白さとは何であるかといえば、パッと思いつくのは「新奇さ」「共感」「ギャップ(ズレ)」「テンポ」である。
また、その周辺領域として「シンボル」「自信」「ラインの見極め」なんかも検討に値するかもしれない。

…何の面白みもないキーワードが並んでしまった。まあ、気を取り直して一つ一つを検討していこう。


新奇さ

読んで字の如く「目新しさ」のことである。
自分の知らない知識・見解を与えてくれる人間は面白い。

※言うまでもなく、この目新しさとは「相手にとっての」目新しさである。
自分や自分の周囲にとっては常識でも、所変われば「新奇」に映るかもしれないということだ。

ただし「面白い人」といわれるためには、恐らく新奇過ぎてもいけない
誰かにとって、新奇さの面で「面白い人」というのは、その人の知識・見解の半歩〜一歩先を行くくらいの人のことだろう。

「知らなかったけど理解できる話」は面白い一方で、「理解できない話」はつまらないからだ。
あんまり先を行き過ぎると、多分、狂人か、理解不能な前衛芸術のようなものだと思われてしまう。

共感

説明不要、あるあるネタとか、「わかる!」とよくいわれる内容のことである。
「こういうことってあるよね」という話を、何かに例えるなどして、上手く言語化できる人間は面白い。

「あるあるネタ」を「分かりやすいが、陳腐ではない例え」を用いて表せる人間は、「共感」と「新奇さ」を併せ持っており、とても面白い。

ただ、共感の面において「面白い」といわれるためには、ある種の閉鎖性というか、ニッチさも必要だろう。

例えば「人類あるある。直立二足歩行をする」といわれても、何も面白くないと思う。
人類が直立二足歩行をするのは当たり前過ぎて、もはや「あるある!」と言う価値すらもない情報だからだ。

しかし「洗顔しても昼過ぎには顔テカってるんだけど。皮脂量無尽蔵かよ。あたしゃ油田か?」などといえば、「油田ばりに顔がテカる人々」の一部は「あるある!」と面白く感じるかもしれない。
そして、その「あるある」は「普通では考えられないほど皮脂が分泌されるという悩み」をすっきり言語化してくれたことに向けられているのではないか?

この点で、面白い共感とは「ある程度ターゲット層を絞った上で、彼らに共通の認識を上手く言語化する」ことなのではないかと思う。
そして、いわゆる「面白い人」は、自らのターゲット層を見極め、彼らに届く表現をするのが上手いのだと考えられる。

まあ、新奇さと共感とは、ある意味でセットだといえるだろう。

仮に「当たり前すぎる」話でウケたとしたら、それは「当たり前すぎて誰も言ってこなかったことを、わざわざ言語化している」という「新奇さ」が面白いためである。

補足

ギャップ(ズレ)

これもそこまで説明は要らないと思う。
ものすごく広い言い方をすると「常識」「お約束」「確立されたイメージ」からの良い意味/ニュートラルな意味での逸脱のことだ。
お笑いでいう「ボケ」も恐らくここに含まれる。
まあ、あんまり逸脱しすぎても狂人扱いされてしまうだろうけども……

漠然とした言い方になってしまうが、このギャップ(ズレ)というのは、非常に多くの場面・文脈で、様々なものにかかってくる。

それは「強面だけど趣味はお菓子作り」みたいに、属性・性質(強面)にかかるかもしれないし、「超くだらないことを真面目なトーンで言う」みたいに、動作(言う)にかかるかもしれない。

世間一般の常識が「強面」「趣味はお菓子作り」という二つの属性を「ギャップのあるもの」として埋めることもあれば、「自信満々だ(⇔普通、自信満々な人はそうそういない)」のように、ある一つの属性それ自体が、世間一般の常識とギャップがあるものとして受け取られることもある。

多分、ギャップが発生する場所は非常に多様なのである。
このことを踏まえると、ギャップを演出することは、面白さを演出する上で最も簡単な手法なのではないかといえる。
色んなやり方ができるし、他の「面白さ」と絡めるのも簡単だ。

例えば「自信満々に間違った答えを言う」だけでも、「普通自信がある人はあまりいないのに、自信満々だ」「自信満々なのに、間違えている」という二種類のギャップを演出することができるだろう。
下手にやるとあざといから、注意しなくてはならないが……

他にも「さも当たり前のように、マニアックな知識を披露する」なども使えるかもしれない。
少しでも「知識をひけらかしている」という印象を与えると、一気につまらなくなるという欠点はあるが。

テンポ

これもあまり説明は要らないかもしれない。
気まずい沈黙を生まない、テンポの良い会話。まずい方向に話が行きそうになったとき、即座に話を戻す観察力・決断力・コミュニケーション能力。
ざっくり言うと、そうしたもののことだ。

正直、この点に関して私が話せることは少ない。
そんなコミュニケーション能力があったら、何も苦労しないわい。

まあ、テンポ良くペラペラ話せないのであれば、相手に話をさせておけば良いのではないか。

  • こまめに相槌を打つ

  • 相手の話に関連性のある質問を差し挟む(関連性のない質問、質問攻めは✗)

  • 話の雲行きが怪しくなってきたとき(誰かの人格否定めいてきたときなど)だけ、相手とは「少し」違う(あまりに違いすぎると、敵認定されてしまい、空気がギスギスするかもしれないので)見解を示して話の流れを戻す

…とそれっぽくなるだろう。知らんけど。

あと、自分が話すときには言葉に詰まらないようにするくらいだろうか。
ただ、言葉に詰まったときには「うーん、難しいな……」「あんまり考えたことなかったな」くらいは言っておくと、気まずい沈黙を多少回避できるかもしれない(無言で考え込まれるのが、恐らく一番気まずくなる)。

いや、マジでなんも書くことないわ……次行こ。

シンボル

これは「その人といったら〇〇」の「〇〇」に当たる部分のことである。
誰かをイジるとき、他の人を話題に上らせるとき、私たちは往々にして、その人の代表的な属性を上げて話をする。

「紅茶が好きすぎてスリランカにまで行った人」を誰かに紹介しようとすれば、自ずと「こいつ、すげー紅茶マニアでさー」から話が始まることだろう。
紅茶好きの彼/彼女は、「極度の紅茶マニア」という属性を何度でも(誇張して)喧伝されることになる。

…というと「人のほんの一部分だけを切り取って誇張するのは、いわば人間のキャラクター化であって、真にその人のことを理解しているとはいえない」と反論したくなる人もいると思う。それはめっちゃ分かる。

だが、良いか悪いかはさておいて、こうした分かりやすい属性があると、印象に残りやすくなることは間違いないだろう。

あとそもそも、人はお互いに大して関心を持っているわけではなく、他人に対する解像度も低いことが多い。
そのため、相手に雑に「この人といえば〇〇!」といえるものがあると、取っつきやすい(=面白い)と感じるのだ。

属性:スリランカに行くレベルの紅茶マニア
→振りやすい話題:紅茶の話(好きな茶葉は何か?何がきっかけでそこまで紅茶にハマったのか?)、旅の話(スリランカではどこを訪れたのか?どのくらい滞在したのか?旅費はいくらかかったのか?)
→そこから連想される話題:紅茶と同じくらい好きなものはあるのか?旅費を捻出するために節約をしているのか?海外旅行に行けるくらい有給は取りやすいのか?仕事は何か?……

こんな風に、あるシンボリックな属性は、その人とコミュニケーションを取る上での良い取っ掛かりになってくれる。
あるいは、本来よく知らないその人のことを、理解した気にならせてくれるかもしれない。

「コミュニケーションが取りやすい」「イジりやすい」「理解しやすい(実際は理解した気になっているだけかもしれないが)」というのは、どれも面白い人の特徴といえる。

そのため、一般受けする面白い人というのは、喧伝しやすくイジりやすい属性やキャラクターづけ(=シンボル)を持っているのではないかと思う。

自信

自信は持つだけ得である」と、個人的には思っている。

先にも述べた通り、世の中には多分、自信のある人が少ない。
そのため、「自信を持っている」というだけで、世間一般の「普通」とのギャップを生むことができるのだ。
それだけで、その人の能力に関わらず、ある種の「面白さ」「興味深さ」が発生する。

しかし、自分の能力に関係なく自信を持つのは、とても難しいことだろう。だからこそ自信家は希少なのだ。
誰しもが「自信家×無能=ピエロ」という方程式を恐れているのである。

ゆえに、ピエロになることを恐れない人間は、もう既に面白い。
もちろん、有能な自信家も面白い。

とにかく、実力如何に関係なく、自信は持つだけ得なのである。

ラインの見極め

差別的な発言やイジりの範疇を超えた侮辱──「いくら何でも言ってはいけない」ラインがあるということは、皆様ご存知の通りだろう。
「面白い人」というのは、言って良いスレスレのラインを見極めるのが上手いのだと思う。

…というと「そもそもスレスレなんか攻めるな」と思われるかもしれない。

だが、考えてもみてほしい。
「昨日は道に迷っている人を助けました!」なんて話を聞いて、面白いと思いますか?
仮に面白いと思ったとしても、それは、わざわざ「道に迷っている人を助けた」なんて「変わった」話をする人に対して向けられる「面白い」ではありませんか?

「普通」「常識」「良識」「善人」ドンピシャリはつまらない。
今まで挙げてきた「新奇さ」「共感」「ギャップ」なんかも、突き詰めれば「普通からのちょっとしたズレ」というところに行き着く。

そして「ズレ」とは──そこに悪意のようなものがないとしても──「普通」に対する挑戦状なのだ。挑戦的で刺激的なものは面白い。

もちろん、ここまで再三述べてきた通り、普通から逸脱し過ぎても良くないかもしれない。
だが、言って良いスレスレのラインを見極め、普通からの適度なズレを演出できる人間は、きっと面白い。

まとめ

「面白さ」とは、「普通からの適度な逸脱」と「取っつきやすさ」である。

…クッソつまらん結論になってしまったが、まあ、こんなところにしておこう。
それではまた!

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