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「面白い人」が君を選ぶとは限らないでしょ?

前回(登場人物に関連性があるというだけなので、読まなくてもOK)↓

「面白い人がいる可能性が高いだろうから」

以前、知人の佐渡(仮名)に「なんで良い大学に行きたいの?」と聞いた際に、返ってきた答えが↑だ。

「良い大学の方が、面白い人に出会える可能性は高い」
「だから良い大学に行きたい」

佐渡はこんなことを言っていた。

なるほど。
(良い大学に面白い人が多いのかはさておいて)魅力的な人物に出会うために、そういった人々が多く集まりそうなところに行くというのは、確かに有効な手段だろう。

ただ一点、佐渡は重要なことを見落としている。
それは「面白い人も付き合う相手を選ぶ」ということだ。

良い大学に行った。面白い人に出会った。…それで?
出会っただけで、自動的に面白い人と友人になれるわけではない。
言うまでもないことだが、彼らと友達になるには、彼らから「面白い人だ」と思われなくてはならないのだ。

仕事相手、友人、恋人、etc──関係性を問わず、人は付き合うメリットがある人間としか付き合わない。
メリットというと何とも冷たいけれど、「面白い人と友達になりたい」のも、要は「面白さ」が自分にとってのメリットだからだ。
これは、人間なら誰でもやっている損得勘定なのである。佐渡がそうしているように。

(断言はできないが)恐らく佐渡には「人は互いに相手を選ぶ」という視点が欠けている。
彼/彼女は、何故か「面白い人と出会う」ことが「面白い人との関係を築く」ことのゴールだと思ってしまっているのだ。

まあ、これまでは「出会う=友達」の論理で良かったのかもしれない。
高校くらいまでは、「同じクラス」とか「同じ部活」とかで共有する時間が長い分、何もなくても相手と親密になれる可能性が高かっただろうから。

ただ、大学以降ともなると、上の論理ではちょっと厳しい気がする。
なにせ人間関係の流動性が高すぎるのだ。
「出会って」から「コンスタントに会って時間を共有し続ける」ことも難しいし、そもそも時間を共有するような間柄になることが難しい。

運良く「面白い人」に出会えたとしても、彼らから「こいつ、つまらないな」と思われたらおしまいである。以降、彼らと時間を共有する機会は得られない。
「面白い人」からすれば、周りにたくさん人がいる中で、わざわざつまらない人間に時間を割く意味はないのだから。

だからこそ、佐渡はなるべく早く「自分が面白い人を選ぶように、面白い人も自分と付き合うのかを選ぶものなのだ」と気づいた方が良いのだと思う。

面白い人と出会うための「機会」を得ても、いざ彼らに出会ったとき、選ばれるだけの「魅力」がなければ意味がない。
そうなったら「機会」を得るための努力すらパアだ。もったいない。

あと、自分が面白い人になれば、面白い人に出会う機会が増えるというのもあるだろう。類友というやつだ。
佐渡は多分、自分自身が面白い人間になる努力をした方が良い。

それでは、どうすれば「面白い人」になれるのか。
これを次回考えていきたい。

次回(どうすれば「面白い人」になれるのか?)↓

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