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イカロス

バタイユの『太陽肛門』を読んでからだろうか、イカロスというモチーフに取り憑かれている。
頭の中がグチャグチャなので、とりあえず単語だけ連想ゲームで吐き出そう。

太陽─鷲─鳥─翼─イカロス─墜落─塔─象牙の塔─真理─太陽。
これを「神話=男性性」という色彩が包みこんでいるのだ。

というか以前、この一連のイメージを元にして短編小説を書いたんだった。

だからこのnoteは、上記の作品の解説記事?でもある。

さて、知っての通り、人間は太陽を直視することができない。あまりに眩しくて目が焼けてしまうからね。
しかし人間は、自分が直視できない太陽に憧れてもいる。「神の至福直」しかり「啓蒙(くらきをひらく=を当てる。Enlightenment)」しかり、真理への到達はえてして「光の中で見る」イメージと結びつけられている

だが「光の中で見られるもの」はあくまでも「光を表面で反射する物体」にすぎない。それはあくまでもプラトンのいうような「洞窟の壁に映った影」でしかないのである。
本当は洞窟を出て、太陽そのものが見たい。反射を通して人間に「かたち」の像を投げかける当のもの、その正体が知りたい。人間の視覚と知性の根源に至りたい。

人間にとって、こういう「光」を象徴するものが太陽なのだ。
光によって自分たちの知性を基礎づけ、世界との関係を結ばせるもの。それどころか、地球のエネルギー源であるという特性から、自分たちの存在を生み出しすらしたもの(生産者たる植物は光合成をするだろう?)。
それでいて、ときに熱病や干魃や飢饉の原因にもなるもの。生き物を死なせる力をもったもの。
こんな風に太陽には、静謐さと苛烈さ、豊穣と破壊という二面性がある。そして人間は太陽を恐れながらこれに憧れる。いやきっと、恐ろしい側面にすらひそかに憧れているのだ。

一方、ギリシャ=ローマ時代より、神話の世界において鷲は太陽を直視することのできる唯一の動物として描かれてきた。
現実にどうかはさておいて、少なくとも鷲にはそういう印象が付与されてきたのである。

「鷲」と名指しされているものの、これは正直鳥一般といってよいと思う。
鷲は「空の王者・・」ともいわれるが、実のところ、動物の世界に「王」はいない。「捕食者と被食者」の関係は、べつに「王と奴隷」のように区切られ制度化された上下関係ではないのだから。これは『宗教の理論』にも書いてある。
ゆえに、食物連鎖の頂点に位置する鷲が「太陽を直視する力」を担わされたからといって、その力の根源が「食物連鎖の頂点にいる」ことであると断定するのは誤りだといえる。食物連鎖の頂点にいることは、王であることを意味しない。鷲だけを特別視するのは、王=血統の重視という人間的な思考の不純物によるのである。
そうではなくて、太陽を見る力の根源は「空を飛べる」ことにあるのではないか。だから太陽を見られるのは飛べる鳥一般でいい、と個人的には思っている。

ヨーロッパの紋章を見てみると、鷲を守護動物に据えたものが結構多いことに気づくだろう。神聖ローマ帝国とかボヘミア王冠領とかプロイセンとか。

ちなみに、鷲と並んで多い守護動物はライオンである。

鷲は「空の王者・・」とも呼ばれるし、ライオンは言わずもがな「百獣の」として扱われている。
人間の想像力は、端的な強者を王や神になぞらえがちなのだろう。そして特別な意味を担わせたがるんだ。

余談

さて「イカロス」というのは、人間が鳥の翼を身につけて飛翔し、一時はかつてないほど太陽に近づいたが、ついに人間であることを超えられなかったという話だろう。
真理に近づきすぎると、人は焼き尽くされて墜落死する運命にある。いや、人を墜落させることをもって、真理は自分が真理であることを証しするのかもしれない。

別の角度から考えようか。結局のところ、生き残ってしまうことは真善美への背徳なのではないか?
上手く飛んで生き延びた父ダイダロスよりも、死んだ息子イカロスの方が有名だ。好奇心と愚かしさでもって破滅した者の方こそ、むしろ真善美をよく讃えるのである。死が生への最上の賛美であるように、愚かさが真理への最上の賛美なのだ。
ゆえに真理は殉教を強いる。真理とは人をやさしく導くものでは断じてなく、むしろ人を呑み込んで羽根をバラバラに溶かして墜落させる烈日なのである。

それも本物の太陽ですらなくて、近づけば人を焼き尽くすという太陽の「イメージ」にすぎない。それが真理の狡さだ。
実際、天高く飛翔したって、本当に焼き尽くされるということはないだろう。現実には上空に行けば行くほど気温は下がるのだから。宇宙空間に至っては、2.7ケルビン(-270.45°C)の極寒地獄である。

「それは科学の発達した現代だからこそ分かることであって、ギリシャ神話が作られた古代には知りようもなかったことじゃないか。神話の作られた時代の人々は、上空に行けば行くほど気温が上がると考えても仕方あるまい」
「現代の見識をもとに過去を捉えるのは、歴史家として誠実ではないだろう」

そう思うだろうか? まあいい。私は歴史がしたいわけじゃないからな。
だから現代の認識と古代の認識を平気で並べよう。古代から現代に至る認識の変化こそ、イカロスの神話の最も興味深い点なのだから。

「古代においては、上空に行けば行くほど気温が上がるという認識のもと、イカロスの神話が作られた」
「現代においては、上空に行けば行くほど気温が下がるという『科学的知識』のもと、イカロスの神話はあくまでも『不変の物語』として捉えられている」

現代に生きる我々は、イカロスの神話を聞いて「昔は正しい科学的知識がなかったから、そういう物語も作られるよね」と考える。
一方で我々は神話の内容を否定しない。「現代の見識をもとに過去を捉えるのは、歴史家として誠実ではない」からだ。

ここで神話は「誤った知識」に基づいてはいるものの、それ自体過去においてすでに完成し、もはや不変の「物語」として取り扱われる。
分かるだろうか。私たちは「現代の見識をもとに過去を捉えるのはよくない」という過去への「寛大さ」のもと、イカロスをすでに完全に死んだものとして扱っているのだ。
現代の知識に基づいて神話が改変されることはなく、ゆえにイカロスは「誤った知識に基づいた物語」の中で死んだままなのである。

そして──科学的な「本物の太陽」は、天高く飛翔しても人を焼かないから──イカロスを墜落させたのは、神話的な「偽物の太陽」であるとみなされる。
「偽物の」太陽に焼かれ、「本当に」死んだものとして扱われる。彼を焼いた太陽が「偽物」であったと知られてもなお、イカロスは死んでいる。これは絶対的な死だ。

イカロスは「愚かにも」好奇心に呑まれて墜落死した。
あえてこう言おう──神話は「愚かにも」太陽に関する誤った知識に基づいて作られてしまい、それゆえに現代では死んでいる。

イカロスも、イカロスの生きた神話も、「愚かさ」でもってすでに死んだ真理の殉教者だ。

お分かりだろうか。真理の殉教者は時代が下るごとに増え続ける。そして、決して「これ以上増えなくなる日」は来ない。
なぜなら、科学的知識の実証性は決して完成しないからだ。古典力学でさえも量子力学によって批判され補強されてきたようにね。
「科学的な正しさ」とは常に蓋然的な当座のものにすぎないのだ。

たとえ「真理に到達した」と思っても、次の時代にはそれが真理でなかったと分かる。
だからといって、真理を探究して死んでいった者たちが生き返るわけではない。

真理はその本当の姿を人間には見せてくれないし、そもそも「本当の姿」なんてものがあるのかも分からない。あったとしてもそこには決してたどり着けないだろう。
私たちは「本物の太陽」に憧れるが、私たちが焼かれて死ぬのはいつだって「偽物の太陽」なのだ。本物は手の届かない宇宙の彼方にある。

だから真理は狡い。偽物の灼熱で本当に人を焼き殺すからね。
それでも懲りない人間は愚かだ。だからこそ真理の賛美者なのだろう。

なお私は、高みに上り詰めた末に報いを受け、愚かにも気高く死んでいくものを「男性性」と呼んでいる。そして神話はその物語だ。

「神話=男性性」についての補足

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