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自分がいなくても仕事は回る

私は、2024年3月末に19年勤めた仕事を辞めました。
現在は「フリーランス」といえば聞こえは良いですが、収入はこれまでの10分の1以下です・・・。
40代で人生をリセットした身として、これからの生き方やこれまでの経験に需要があるのか?需要があるなら、この発信が誰かの役に立たないかな?そんなことを思い、シリーズ化してnoteを投稿しています。

今回は、仕事をしていく中で「自分にしか出来ない」と思っていたことが、「自分がいなくても仕事は回る」ということに気づいた話について書きました。よろしければ、お付き合いください。

また、この記事を読んでいいなと感じてもらえたら、スキやフォローをしてもらえたら嬉しいです。

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組織での仕事

私は公務員という「組織」にお世話になりましたが、組織にいるからには、いろんな人と一緒に仕事をします。いろんな人のいろんな個性を尊重し、補い合って成果を出せるのが組織の強みだと思います。
強みをより発揮するためにも、私は自分の行動が組織にとってプラスになるように、マイナスをなるべく減らすように心がけました。

  • 周りに迷惑をかけないようにしなきゃ

  • 早く一人前にならなきゃ

  • 仕事を効率良く進めなきゃ

などなど、とにかく仕事を止めずに円滑に回さなきゃという想いでした。
これまでのnoteに書いてきましたが、組織のためにも、まずは私の成長が急務だと考えました。マニュアルを読んだり、分からないことは先輩方に質問しまくったり、とにかく基礎を固めました。

自分がいなきゃ仕事が回らないという勘違い

仕事の基礎が出来てくると、私が主担当となる仕事を与えてもらい、「この仕事は私が1番情報を持っている!」というポジションになっていきました。
さらに、歳を重ねるごとにそのポジションが増えていき、これまで複数人で担当してきた仕事を1人で担当するようになりました。

また、仕事をしていると組織の内部だけでなく対外的な対応も出てきます。例えば

  • 議会での質問に関わる問合せ

  • マスコミからの問合せ

  • 住民や他事務所からの問合せ

などなど、そのような問合せも担当の仕事として対応する必要があります。程度によっては上司が対応するものもありますが、情報の多くは担当が持っているので、担当抜きには仕事が成り立ちません。

私も、その担当の1人として問合せ仕事も対応していました。
「問合せ仕事」は突然やってきます。問合せたい人の都合でやってきます。
忙しい仕事を抱えている時かもしれないし、外出先で問合せ仕事が入るかもしれない。いつどんな時でも対応しなければならない。しかも短時間での回答を求められます。優先順位が突然1番になることがよくあります。

内容によっては、新たに資料を作成しなければならない。
資料を外部に提出するならば、内部の決裁が必要になります。その時、決裁者が職場にいるのか?いるならば決裁者1人ずつに説明をする。説明が足りなければ補足の資料作成や追加説明、了解してもらえたらハンコをもらう。この繰り返しの弾丸スタンプラリー。

そんな環境にいた私はいつの日からか、「私がいないと、この仕事は回らない」と思うようになりました。
そしてそれは、大きな勘違いだと気づくまでにかなりの時間がかかりました。

自分は組織における部品の一部

「私がいないと仕事が回らない」という意識なので、もちろん「仕事を休む」なんてありえません。仕事が残っていれば土日も出勤しないと、次の週に仕事が繰り越されてどんどん増えていきます。

独身の時はまだ自分の時間だけ削ればよかったのですが、家庭を持つと自分だけの時間ではなくなります。
「職場での私」と「家庭での私」
動かすべき私が2人に増えます。でも、体は1つ。

職場での私は、仕事でいっぱいいっぱい。
家庭での私は、家族に安全安心を提供する必要がある。
肉体的にも精神的にも修行な日々でした。

そんな生活を送っていて、ふと疑問に思う出来事がありました。

どうしても家庭の用事で仕事を休まなきゃいけなかった時、
家にいると職場から何度も電話がきました。
仕事内容の確認でした。詳しい内容を知っているのは私なので仕方ない話ですが、

その電話は、仕事の要件が終わると「ブツっ」と切れる。
また電話が来て答えると「ブツっ」また来て「ブツっ」
あれ・・・?私は悪者?休んだ私が悪い?
というか、組織が欲しいのは私が持っている「情報」?
私自身では無いのか?

私がいなければ、誰かが私の空いたポジションについて、私の業務をやる。ただそれだけの話なのか!

私は組織の「部品の一部」であって、「人」じゃないのか。
そう思うことが、この他にも何度かありました。

自分がいなくても回せる仕事

組織が求めるのは「私」ではなく「仕事を回す人」なのかと気づいてから、私は少しずつ考えを改めました。

私の中では、組織で仕事をする場合、「担当がいないと回らない」というのはおかしいと思っていました。
行政サービスを受ける住民からすれば、「今日は担当がいないので明日またきてくだい」と言われたらどんな気持ちだろうか?

むしろ仕事の内容を組織で共有する。
それがよく言う「風通しが良い」というものではないのかな?

でも、変に、仕事内容を知りすぎると「それは担当しか知らないから担当に聞いて」という印籠を使えなくなる。
そうなると、仕事はなるべく担当に預けて手放す方が楽。

マネジメントする側に立つと係員の仕事を隅々まで覚えるのは難しくなります。係員も係内の職員の仕事がどんな状況なのか、全てを把握するのは難しいでしょう。

ただ、係員が今どんな仕事をしているのか?大枠を管理することは最低限やっておくことがリスク管理上必要となる。
なぜなら担当は明日も出勤するとは限らないから。
それでも管理しないならば、ただの丸投げになる。

担当が仕事内容を知っているのは当たり前だけど、マネジメントする側も情報を持ったり、「この資料を見ればわかる」、「ここのデータにアクセスすればわかる」という体制にしないと仕事は円滑に回りません。

じゃあどうするか?
「自分がいなくても回せる仕事」をする。

今思えば当たり前のことですが、私の職場は属人的な仕事が多かったので、「自分がいなくても回せる仕事」をするという概念はほぼなかったのが現状です。

例えば「共有ハードディスク」
情報は共有ハードディスクに保存していましたが、その中には個人フォルダがあり、個人にしか分からない名前でデータが保存されています。第三者が緊急でデータを使いたくても、個人にしかわからない場所に保存されています。

「自分がいなくても回せる仕事」を心がけていれば、担当への電話の時間やデータを探す時間が本来なら短縮できます。
(⬇参考noteです)

自分がいなくても仕事は回るという現実

現状は厳しいものでしたが、私がどこまで出来るか実践した結果、私がいなくてもそれなりに仕事が回る体制を作れるようになりました。

子供が熱を出して休んでも、職場から電話が来る頻度は減りました。そもそも私は組織の部品なので、代用が効くならそれを活用すればいい。

当たり前ですが、仕事の代わりはたくさんいるけど、私の子供の看病をして子供が安心できるのは、私や家族にしかできないことです。

部品として生きるか?人として生きるか?私がいなくても仕事は回るなら、私は人として生きていきたい。

退職して改めて思いますが、組織を抜けた私は、組織からしたらただの人です。75日もたてば組織の人達の記憶からなくなるでしょう。現に、「退職したら近況報告しましょう」と言っていた職場の人達からの連絡はなくなりました。

君がいなくなるのは組織の損失だ

上司に退職の意向を伝えた時、「君がいなくなるのは組織の損失だ」という言葉をいただきました。
とてもありがたいと思ったものの、私は「組織の部品」「代用可能」という認識でいたので、ありがたい言葉は全く入ってきませんでした。

どちらかというと「君がいなくなると私にとっての損失だ(部品が無くなると替えを探すのが面倒だ)」と聞こえました。

私が退職を決断した経緯、想いを伝えても伝わらない現実。この人はどこまで私を人として見てくれているのだろう?
私という「部品」の性能を「人事評価」に反映しているだけだったのではないだろうか?

私がいなくても仕事は回ります。
それはどの組織でも当たり前のことかもしれません。
ですが、組織という大きなものだからこそ、そこにはたくさんの人がいるからこそ、「部品」ではなく「人」として組織の一員になりたかった。
仕事の成果を提供する先にいるのは、住民という人だから。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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