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「仲の良かったおじさんが泣きながら近づいてきて、急に頭にナタを振り下ろした。あの日島民は、互いに殺し合って死んだ」

今年も慰霊の日がやってきた。日本唯一の地上戦が行われ、甚大な人的被害が出た沖縄戦が、77年前の今日終結した。このことを記念し、沖縄では公休日になっている。

自分は沖縄本島で4年間の激しい研修を過ごした。寝ても覚めても、とにかく患者を診続けた。しかし、どんなに疲れていても、病棟や外来を彩るオジィやオバーと接しているうちに、それも少し忘れることができた。

明るく朗らかに過ごしているように見える彼らは、大昔にこの世の地獄を生き延びている。

どんなに仲良くなった患者さんでも、戦争のことについて気軽に聞くのは気が引けた。彼らの優しい瞳は、報われなかった無慈悲な死を、その網膜に何重にも焼き付けてきたはずだ。その脳裏には今でも、苦しむ家族の姿や大切な人の顔が浮かび、眠れない夜もあるのかもしれない。

戦争が終結して77年。「戦争を知らない子供たち」という歌が流行ったのでさえ、もう50年以上が経過している。そんな「戦争を知らない子供たちの子供」である自分が、「オジィ(オバー)も戦争行ったの?」なんて聞きづらかった。

ただ、慰霊の日だけは別かもしれないと、勝手ながら解釈している。毎年6月23日になると、戦争の話を病棟を回って聞き出していた。その全てがリアリティに満ち満ちていて、息が詰まるようなものばかりであった。平成に生まれた自分が、自分なりに感じている悩みや苦しみは、いかにちっぽけか思い知らされた。

その口から、その声で、直接話を聞けること。なんと贅沢なことだろうと思った。そんな島の宝とお話しできることは、本当に奇跡としかいえない。長生きしてくれてありがとう。心からそう思った。それと同時に、オジィ(オバー)の口から直接話が聞けなくなる日が、すぐそこまで迫っていることも事実であった。

毎年この日に思い出す症例がある。

90歳を超えたオジィが蜂窩織炎と敗血症性ショックを合併し入院となった。オジィはすでに認知症が進んでおり、重症であることもあり自分のことをうまく表現することができなくなっていた。幸い血圧は抗菌薬と乳酸リンゲル液の投与で戻ったが、再びショックに転じ、そのまま亡くなってしまう可能性は十分考えられた。

痩せほそった大先輩を目の前に、自分は担当医として最悪の可能性について本人と家族に話すこととした。もしそういうことがあれば、いわゆる延命処置はお勧めはしないと。しかし、命についての話なので、みんなで話し合うのが大事だと話した。すると家族は担当医の目をはっきり見据えて言った。

「先生のおっしゃっていることについては、私もそう思います。でも、父は何がなんでも生きたい人なんです。その理由も、ずっと聞いてきました。なので、どんなに望みがなくても、骨が何本折れようと、全てやってあげてください」

なるほど、確かにそう言う気持ちもわかる。しかし、90を超えた超高齢者が心停止に陥ったとき、心臓マッサージや気管挿管などを行っても救命率は極めて低く、侵襲が強い延命措置は推奨されない、というのが現代の考え方だ。

変な言い方にはなるが、どうしてそこまで、「生」にこだわるのか。と言うのも、超高齢者で同じような状況の場合、5人に3-4人くらいが、いわゆる心肺蘇生を希望しない「DNAR」になる肌感覚を持っていたからだ。「オジィ(オバー)は十分もう生きたさー」と言われることも、よくあった。

それどうやら、このオジィの人生を紐解かないと、その理由はわからなさそうだと思った。腰を据えて家族から話を聞くこととした。

オジィは座間味島の生まれであった。座間味島は「慶良間諸島国立公園」の構成要素である美しい島だ。

今でこそ内地(本州)からの観光客を気前よくたくさん受け入れる観光地となっているが、この島には、かつて米軍の攻撃を受けた際、島民同士での自害を余儀なくされた、あまりにも悲しい歴史がある。後世に「座間味集団自決」と伝わる出来事だが、降伏をよしとしない「風潮」があったため、他に選択肢がなかったのだ。

死を「自」ら「決」めたわけではなく、本当は当然そうしたくなかったのに、当時の教育からそうせざるを得なかったという側面を無視しているとして、「自決」という言葉は使用しない方がいいとする声も根強いと聞く。

「あの日、仲の良かったおじさんが泣きながら近づいてきた。何かと思うと、自分の頭に向かって、急にナタを振り下ろした。」

「頭の骨がぱっくり割れて、死んだと思った。倒れていると米兵が通りかかり、ワイヤーで縫って頭蓋骨をくっつけてくれ、治療に運んでくれた」

「家族はほとんどがそうやって死んでしまった。だから自分は何としても、生きなければいけない」

オジィは座間味の生き残りであったのだ。何としても生きたい。その意味を理解した。いや、理解したというのは烏滸がましい。オジィの言葉の意味を、そう「解釈」することができた。

幸い、オジィは何事もなく回復し、元気に退院していった。あのオジィは今どうしているだろうか、もしまだ生きていれば、今頃カジマヤーを迎えているくらいだろうか。

今年も6月23日を迎えた。今年は首相が3年ぶりに現地を訪問するという。沖縄を離れてしまったが、沖縄は本当に奥深すぎる地域であり、5年ぽっちじゃ「沖縄のことは知っている」なんて、とても言えたものではない。そもそも、自分はウチナーンチュではない。

しかし、自分は沖縄で過ごしたことを誇りに思っているし、戦争のことをたくさんオジィ、オバーに教わってきた。そんな自分でも、沖縄のことを語り継いでいくことはできると考えている。

来年の6月23日にも、またあのオジィのことを思い出すに違いない。

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