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エッセイ|本気で思っていた“続かない言い訳”

ずっと体のことで苦労してきた。30年ほどかな、壊滅的に体を壊して臥せっていることが多くて、少し無理をするとダウン。もちろん30年の間には割と健康な時期があり、おかげで家庭を持てた。

子育ては楽しくもあり、寝込んで子に寂しい思いをさせることもあったがいろいろな幸せな経験が出来ている。その中で、Kindleにも書いたのだが下の子が発達障害グレーゾーンで不登校を経験し、ここ10年はとにかく緊張の連続だった。

そんな状態で、何かしようと思っても続かなかった。
例えば分かりやすく言えば、最近ではX(Twitter)の毎日投稿とか二ヶ月に一冊ペースでKindleを出すとか。

言い訳としては、もともとの薬害からの体の弱さ、コロナやケガや、母の介護問題や、子供のこと。まぁ、コロナとケガは正直何も出来なくても仕方ないのだけれど、介護問題や子の件は今思うと『本当にそれが原因だったのか』と。

たしかに大変なのだ。
アルツハイマーになった近距離別居の母はとにかく怒り、時間構わず電話をしてくる。電話に出ないと家に突撃してくる。こちらの頭がおかしくなるか、母が死ぬのが先か、そんなふうに感じていた。アルツハイマーになる前から面倒な母だったので余計に気持ちがかき乱されていた。

下の子に関しては、何よりもこの子が健やかに過ごしてほしいと、自分なんて後回しにしてきた。パニックを起こすことがあったし、女の子とはいえわたしよりも背が高くなった子が全力で感情をぶつけてくるのを受け止めきれないことがある。年数を重ねるうちに疲弊度も増してくるし、わたしも歳をとって来るから尚更だ。

まあ、そんな諸々で『○○をする!』と決めたことが続かない、続けられない、その繰り返しだったのだ。どうしてわたしの人生こうなのだろう?と本気で思っていた。

最近になって、ありがたいことに長年の苦しみだった『自分の体のこと』はほぼ回復し、無理はきかないけれど日常生活に支障は無くなった。母は介護付きのマンションに入居し、アルツハイマーが進んだことでなんだか憑き物が落ちたようにおだやかになった。下の子は大学院への進学が決まり、心身共に揺らぎはあるもののしっかりと将来を見据えて過ごし始めた。夫は理解者だし上の子は社会人として順調だ。

全てが、長年望んだような生活。やろうと思えば何でも出来る。

それなのに、わたしのやっていることが変わらないのだ。こんなにも時間ができたのに、精神的な縛りもないのに。せっかく何かを始めても、気づくと何もしない時間が多い。どうしてだろう?と、自分の気持ちの動きをちょっと覗いてみることにした。

一番はじめに出てきたのが「なんか分からないけれどやりたくない」。めんどくさいとは違う、でも「なんかやりたくない」。エイッと取り掛かれば特に問題なく進めていけるから、本当にやりたくないわけではなさそう。

次に出てきたのは「考えたくない」。考えるということ自体を放棄しているのかなと感じる。そういえば“物事を考える”って長らくしてこなかったな。脳みそが冬眠でもしているのか。

何で考えたくないのか??そこまではまだたどり着いていないけれど、もしかしたら考えないことが習慣化しているのかも知れない。

結局『○○だから出来ない』って、はじめのうちは確かにそうだったかもしれないけれど、どこからか『物事を続けられない言い訳』として使っていただけではないか?それを大義名分にしていたわけだ。

なんて恥ずかしいんだろう、わたし。




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