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マイストーリー ②
初任校
アメリカでの2年の日本語教師としての任期を終えた後、私はアメリカに残らず日本に帰国する決心をしました。高校生の時に”私のように学校で苦しむ生徒を助けたい”、と思った気持ちを秘かに持ち続けていたのと、当時お付き合いしていた、後に夫となる男性の存在が大きかったのです。
2002年 出身地の教員採用試験を受験、教員として採用される
初任校はbとdの違いが分からない生徒が沢山いるような高校で、英語を教えるのではなく、喧嘩の仲裁や喫煙など違反行動をした生徒の生活指導が仕事のメインでした。
マイストーリー①での質問を投げかけられる機会が多かったのもこの学校です。1年間で35人が退学し、ほとんどの生徒が高卒、地元で就職か結婚。英語なんて本当にいらないのです。海外どころか電車で町へ出ていくのもやっとの子たちでした。
でもこの学校に赴任することになったのも運命だったと今は思います。当時の生徒には本当に沢山のことを教えてもらいましたし、今でも一番結びつきが強いのは彼らです。
私は授業が面白くなくても、ひたすら耐えてしましたが、正直者の彼らの面白くない授業に対する態度は以下のいずれか。
寝る
立ち歩く
鏡を見て化粧を始める
プリクラを切る
まだ携帯はない時代でした。
問題を起こさないならせめて寝ていてくれたほうがいい
と考える同僚もいましたが、自分の志望動機が教師や学校への不信感からきているだけに、私は自分の指導法に向き合わざるを得ませんでした。私の指導力は3年間、彼らから時には手厳しいスパルタ教育をしてもらったおかげで格段に鍛えられたのです。
実生活
さて、実生活はというと、
2005年に結婚
夫の住む県で教員採用試験を受けなおし、奇跡的に合格。
2008年に出産
2011年には一軒家を建てました
仕事
夫
子供(男女)
持ち家
絵にかいたような理想的な人生。
でも私は悲しいくらいに不幸でした。
子供は幼く、まだ手がかかる上に、実家は遠く、周りに頼れる人は一人もいない。どんなに辛くても耐えるしか方法がありませんでした。
自分が変わればいい。
変わらなければならない。
夫がこうなったのも自分のせいかもしれない。
心療内科、投薬、カウンセリングをかなり長い時間、かなりのお金もかけてやりました。
再びアメリカへ
子供たちのためにも何とか関係改善を試みていましたが、唾をかけるなどの行為以外に身体的暴力の頻度が多くなり、ある日病院に行かなければならないほどの怪我を負いました。
他にももうダメだと決定づけることがあり、やっと離婚を決意。
そう決めてからは人生が急に明るく、大きく前進し始めました。
教員海外派遣制度、”逃れるためにはこれしかない”。人生をかけて受験、そしてめでたく合格。
2017年 子供二人を連れて渡米
この教員海外派遣制度はオーストラリアとアメリカがあり、実はオーストラリアで希望を出していました。でも留学の時と同様、決まったのは何故かアメリカ。
人の目を、気持ちを気にしすぎる傾向にある私は、日本では窒息しそうな息苦しさを感じる時があるのですが、そういう感覚がアメリカにいると何故かあまり感じず、凄く自然体でいられるのです。
これがアメリカだからなのか、英語だからなのかを試すためにもオーストラリアに行きたかったのですが、そういうのも運命、アメリカに何故か縁のある私です。
さて、ここまで読んでいただき、ありがとうございます。次のマイストーリー③では私とヨガとの出会いを書いていきたいと思います。
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