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当時の自分を思い返す(幼少期編)

皆さんは、子どものころの自分を覚えていますか?

僕はあまり覚えてません。


いや、ほんとに子どものころの自分ってどんなんだったんだろう… 

記事の長さ★★☆☆☆
おふざけ度★☆☆☆☆


そもそもなんでこんな記事書くの?

noteをはじめるとき、おそらく殆どの方が一発目の記事を自己紹介にして始めると思うのです。「noteはじめました」みたいなタイトルで…

でもね、うにゃんこ的に(よくある自己紹介の軽くまとめた感じむずくね….)

と、なったのです。

なので、どうせならもっと自由に、細分化&深掘りして、最後にゆるーく全体を統合させたらええやろ。という浅はかな考えでやっております。

これらの記事を組み合わせていくと、最終的には全体像が現れてくるはずです。

ディアゴスティーニみたいなもんです。

なので、このシリーズの一番最後に「noteはじめました」の記事を作って、そこから各記事に飛べるようにしたいと思います。

本当は自分語りしたいだけなんですけどね

注:基本的に暗い話は除外しています。

第三者の記録を通じて記憶を蘇らせる

昔よく聴いていた曲を久しぶりに聴くと、その時の記憶が蘇ってくることってありますよね

これって、昔の出来事を意図的に思い出すのにめちゃ使えそうじゃないですか?

でもね、残念ながら幼少期のうにゃんこにとって思い入れのある曲があまり無くて困ったのです…

なので、曲ではなく当時の文書を使います。

とある事情により当時の僕の様子を記した文書があったので、それを利用して幼少期うにゃんこの世界にログインするとしましょう。

ちなみに、とある事情については後述します。

まぁ、だいたい皆さんが察する通りだと思います。たぶん。

おぞましいファイル

就学前

まずは0歳~6歳について見てみましょう。

といっても、0歳~3歳頃までの記憶なんてほぼないので、見てもよくわからなかったです。

強いて言えば、3歳~4歳のあたりから少し怪しい雰囲気が出てきてるなぁ…
って感じ。ここなら思い出せそう!!

見た感じ幼稚園に入る前までは主に祖母が僕の面倒を見てたっぽいですね。

正直この頃の記憶もそこまで残ってないのですが、暴れん坊将軍というテレビ番組にハマって、その後しばらくはCSにある時代劇専門チャンネルとトップギア(イギリス版ではなく、トップギアUSAってやつ)をよく見てた記憶があります。

CSは面白い番組が多かったのです。

あと、当時のうにゃハウスでは外国人留学生を受け入れるホストファミリーをしていたので、スウェーデン人とかアメリカ人とか一緒に住んでいた記憶があります。

バケツに入ってる赤子うにゃ

この写真から十数年後、後ろにいる赤い服を着たカナダ人にお世話になるのですが、それはまた別のお話…

4歳~5歳

野菜は美味しいから食べるの!!

この幼稚園、給食制で好き嫌い出来ないのがキツかった記憶があります。

ここで謎に思うポイントが、親んこ曰く0~3歳の頃は野菜をモリモリ食ってたそうなのです。

なぜ幼稚園に入ってから急に食べれなくなったのでしょうか…  不思議です。

5歳~6歳

ルノビって何???←ノビノビだと思う

なぜか分からないですが、写経にめっちゃハマってました。筆で文字書くのが好きだったと思うのですが、親んこからは「出家するの?」と言われた記憶があります。なんで?わからん…

この頃はとあるテレビ番組により、さらに歴史に興味を持つようになりました。

みなさんは歴史秘話ヒストリアというNHKの番組をご存知でしょうか?

これがね、めっっっっっっっっっっっっちゃんこ面白かったんですよ。

残念ながら、2021年に番組が終了し、現在は歴史探偵という名前で存続してるみたいです。

小学生時代

さて、これまで紹介したうにゃんこは興味の範囲が少し周りと違うだけのかわいらしい幼稚園児でしたが、小学校に入ると暴走し始めます。

1年生

なんだこいつ… 

いや、自分自身のことなのに「なんだこいつ…」ってなってます。

親が言うには小学校に上がって少しした頃も暴れん坊将軍にハマっていて、袴を穿いて愛馬(自転車)に乗って色んな所に行きまくってたそうです。
恥ず….

あまり詳しい事は覚えてないですが、この仏壇屋は気に入ってたので今でも記憶があります。

お世話になっていた仏壇屋さんのご主人から貴重~な金箔をいただいたのですが、それを大事に保管するわけでもなく、なぜかペロっと食べました。

血の味がしました。

写真撮られてることガン無視で素戔嗚尊をまじまじと見つめるうにゃんこ


2年生・3年生

2、3年生に関するファイルの内容は暗く悲惨すぎて見せれるものではなかったので、その内容には触れません。ごめんね。

なので別の話題にします。

この頃はひたすら地理にハマってました。「空から日本を見てみよう」という番組に狂わされた僕は、図書室の誰も開こうと思わない埃を被った航空写真集を引っ張り出してひたすら読んでました。

これの何が楽しかったかというと、昔の航空写真と現在の航空写真を見比べ、街がどう変化したのかを探すのがとてもワクワクしたのです。
まぁ、他の子達がやってた間違い探しと一緒です。

今ではその間違い探しがネット上で出来るので、ぜひ試してみてください↓

この地図にある鳥瞰図に狂わされた(本棚の上過ぎて取れない)


3年生になる頃には、姉が雅楽やら巫女舞をしてた関係で僕自身もちょこちょこ参加する機会があり、色んなことをやってました。

たとえば、十二単の後ろに 裳(も)という尻尾のように引きずる布があるのですが、屋外で引きずりながら歩くと汚れちゃうので、裳を持ってあげる人というちょい役をやってました。

から揚げ上手の若君
京都のわりとデカめの所


この頃の僕は、あまりにも親の言う事聞かな過ぎて蔵に閉じ込められたりしてました。

薄暗く埃臭い空間に容赦なくぶち込まれ、外から鍵を掛けられ、とても怖かったのを今でも覚えてます。

しかし、一頻りに泣いた後、ふと冷静になって考えてみると蔵の中は昔のアルバムやお金、謎の食器や錆びた軍刀がある「好奇心そそる古い物だらけの博物館」だと気付いてしまい、蔵の中を探索し始めます。

しばらくし、泣き声が聞こえなくなったので親が心配して「あんた、ちゃんと反省したんか~??」と言いながらゴゴゴゴゴと蔵の重厚な二重扉を開けようとする音がします。

僕は慌てて手に持っていた古めかしいコインをぽっけに入れ、「いかにも反省してそうな泣き顔」をして出迎えました。

「ごめんなさ~い><」

その蔵は実家の建て替えにより取壊されたのですが、鍵だけは今も大事に残しています。

4年生 気付いたら社不になってた。

小学校高学年くらいになると、なぜかコミュニケーションできない人間になってました。いや、元々出来てなかったのかもしれないけど。

高学年になるにつれ、自分自身が周りから疎外される存在となってゆく感覚は確かにあったのですが、肝心な「なぜ除け者になってるのか」を自分自身ではよく分かっていなかったのです。

((強いて言えば僕はポケモンやイナズマなんたらに全くもって興味が無かったので、そのせいかも….?))

また、小児喘息持ちの虚弱体質だった僕は、喘息の発作や肺炎に罹るなどで救急車で運ばれたり、入院することもしばしばあって学校を休む事が多かったです。喘息持ってるのに埃まみれの蔵にぶち込むの酷い

アルバムとか見てると、この頃を境に表情が"無"になってました。

喜怒哀楽が無く、頬っぺをセメントでカチカチに固められてしまったかのような、"無"の顔です。

4年生 人間こわい…

もう完全に集団に馴染めず、教室に行けなくなってしまいました。

ただ、保健室の先生が優しかったので、所謂「保健室登校」を始めるようになります…

保健室登校をし始めると、同級性の自分と似た感じの子がブランケットにくるまりながらソファに座っていて、僕をじっ見つめてきました。
((え、めっちゃ気まずい…))

モジモジして座り場所に困ってる僕に対し、その子が話しかけてきました。

「おぉ、同士よ…」

彼が最初に話しかけてくれたおかげで、独りぼっちだった僕に仲間ができました。これ書いてて思ったのですが、「どうしよ…」って言ってる説もあります。

その後の流れはあまり覚えてないですが、互いにニコ動と飛行機が好きだったので仲良くなっていきます。


5年生 再び暴走し始める。

この頃は4年生の頃にできた友人とよく飛行機を飛ばして遊んでいました。

とにかく空を飛ぶものが好きだったので、薄葉紙(めちゃ軽い紙)で作った落下傘や気球を飛ばして遊んでいました。

その落下傘が風に流されて思わぬ方向に飛んで行き、電柱に引っ掛かった時は「危ねぇ」と色んな人に怒られた記憶があります。

すみません。

友達と遊「べる」ってなんか嫌だな、一人遊びが好きなのに…

また、この頃から中学受験に向けて塾にぶち込まれます。(地元中学校の治安が悪く、僕みたいな弱者は精神が死ぬ可能性があった為)

この進学塾、普通に授業が面白くて最初のうちは楽しかったのですが、僕が出しゃばって質問しまくるせいで授業の進行が難しくなり、塾側から厳しめに注意されてしまったのです。

それ以来、今まで楽しかった塾に行くのが辛くなってしまい、僕は「行ってきます」と言って塾とは逆方向の電車に乗って和歌山に行ったり、塾の前にある公衆電話BOXでやり過ごしたりしていました。


うん、すぐバレました。


その後は親に諦められて退塾することとなり、6年生の秋くらいまで受験勉強はほぼ何もしない状態が続きます。

そもそもこの頃の僕は、LEGOブロックを使ったネット上での国家ロールプレイにハマっていたので受験勉強どころじゃなかったのです。

ネット上で名前も知らない他人と関わるようになり始めたのが丁度この時期です。

初めて「オフ会」というものに参加した。
当時の作品の一部。壊すのが惜しいのでまだ残してます。

後に僕がどハマりする「ソビエト」と出会ったのもこの頃でした。

6年生 さようなら、オアシス。

実は6年生の出来事をあまり思い出せません… ていうか多分5年生の頃とあまり変わらん。

強いて言えば担任がすんげぇ良い先生だったので、学校へのPC持ち込みや、僕がバルサ材で作った飛行機を体育館で飛ばすのを許可してくれたりと学校生活は今までと比べると楽しかった記憶があります。

ただ、親からはしつこく「勉強しぃや」と言われ続け、激おこヒステリ戦闘モードに入った親に三角スケールで殴られたり… おっと、この話はやめましょう。

秋くらいになるとさすがに僕も「しゃあねぇな…」と勉強し始めます。

その後は毎日神社にお参りしてた甲斐あってか、なんだかんだで中の上くらいのキリスト教系自称進学校に合格してました。(社会科の偏差値がインフレしてたのでそのおかげ感はあるけど、ラッキーです)

合格した時は「なんか、親喜んでるしこれでええやろ」くらいの考えでしたが、これが新しい地獄の始まりでした。

とくに何も考えてない顔。
卒業制作、なんでこのチョイス?よくわからん。

中学生時代

12歳のうにゃんこは小学校を卒業し、新しい生活が始まりました。

僕が通っていた中学校はキリスト教系だったので、朝の授業前や昼食前、事あるごとにに𝒂𝒎𝒆𝒏しなければならず、これが超ダルかったのです….

また、自宅から学校までバカえぐい通学距離だったので、徐々に疲弊していきます。(皆も学校作るときは山とか丘とか変な場所にするのはやめようね)

暫くの間はやり過ごせましたが、一年生最初の文化祭の時に遂に限界が訪れました。ただでさえ集団行動が苦手な僕は文化祭の準備に耐えられず、再び学校に行かなくなってしまったのです。

この頃の自分は不登校不凍港を掛けて、南下政策をしていました… 
学校へ向かう路線とは違う電車に乗り、和歌山県の御坊串本によく行ってました。

親も困ってましたが、僕自身も困ってました。

親や小学校時代の先生や周りの人たちに沢山期待されていたのに…


期待さたれてたのに….



学校と勉強そっちのけで舞鶴に寄港してきたロシア海軍の船見に行って、ごめんなさい…

昔は舞鶴港にロシア太平洋艦隊が訓練の為に寄港してた

その後、どうせ学校に行かないのに高い授業料払うのも勿体無いので、退学することになりました… うーん、僕はカスです…

担任の先生もなかなか大変だったろう…(他人事)

所謂引きこもりでしたが、外に出まくる引きこもりでした。

いや学校行けよ。


その後はこの話に繋がります。

まとめ


もう皆さんお気付きだと思いますが、実は僕、ADHDとASD併発型の発達障害を持って….  え?知ってた?  あ、そう…..

発達障害ってなんすか?

人は誰しも得意不得意があります。 あるよね…?
ただ、多くの人はある程度バランスが取れているので問題ないのです。

下記の図の僕の検査結果が分かりやすいと思います。

黒い横線が全機能の平均です。破線の間に収まってるなら定型発達で、破線外にはみ出てしまうと発達障害とされるみたいです。(もちろんそれ以外にも診断基準はある)

僕の場合は処理速度と注意記憶が死んでました。

カンストしてる機能もあれば、平均より劣ってる機能もある。

発達障害を僕なりに簡単に説明すると「砲がめっちゃ強いけど装甲が薄い戦車」とか「戦闘機のエンジンを積んだ原付」みたいなイメージです。

なんかめっちゃアンバランスで使いづらそうですよね?

これが乗り物でなく人間だった場合も同様で、アンバランスな人間は社会にとって扱いづらくなるということです。ただ僕の場合は、

このアンバランスさにロマンを感じます。

「砲は強いけど装甲が薄い戦車」は運用を考えればめっちゃ活躍できそうな気がしませんか?

原付の方は…. ごめんよくわからん….



中学卒業後は何してたの?

実は15歳の頃に高校卒業資格を取ってカナダのとある大学に入ることになりました。でも、これ以上見ると皆さんが胃もたれすると思うのでまた今度書こうと思います。


ここまでご覧いただきありがとうございました!!

今回の記事を書くきっかけとなったポスト。
単なるぼやきが思いのほか反響があったのでビックリしました。ありがとう...


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