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文字列界の実存的意味を考える

救急車で運ばれた治療室で、生と死について考えていた。

診断された「発作性上室性頻拍症」それ自体への不安を抱いたわけではなかったが、人生観において色々なことが分からなくなってしまった。「発作性上室性頻拍症」というのは、動悸が発作的に起き、少し経てば元の鼓動に戻る症状で、10代の頃から経験している。ただ、今年はすぐには止まらなくなった。治療はアブレーション(高周波カテーテル焼灼術)しかなく、成功率は相当高く、患者への負担も再発性も相当低い。自分が今、20代程度だったら、何も思わなかっただろう。だが、今の年齢の自分の体は、どこまで20代の頃のように信用できるのだろう。そして、もし仮に何かあったとき、これまでずっと自分が看る他なかった母はどうなるのだろう。

これは、文学についての話だ。

半世紀感覚

最近よく思うのは、仮に今が50歳だったら、それは半世紀だ。

例えば、この文章を打っている2024年の半世紀前は1974年(昭和49年)。この年はちょうど、日本初の本格的コンビニエンスストア「セブンイレブン豊洲店」が開店した年で、首都圏の駅で初の禁煙タイムが設定され、ソニー初のPCM音源を用いた録音機「X-12DTC」が開発され、これがのちのCDに繋がる(つまり、CDはない)。コンビニはおろか、スマホもガラケーもない。ジャニーズが株式会社として設立されたのは1975年で、1974年という時間軸ではそもそもなかったその芸能プロダクション名がいまや存在しない。今のインターネットもないので、GAFAなどの企業もない。

半世紀前は、今とまったく違う旧世界だが、時というのは、これまで生きてきた時間の量で見え方が変わる。

もし仮に今が20歳なら、半世紀前というのは倍以上で、きっとイメージしづらいだろう。しかし50歳なら、すでにそれだけ生きているのだから余裕で分かる。それどころか、倍にした100年も、何ならその倍の200年さえも、想像できる。100年前の日本は、1924年、昭和を飛び越え、大正13年。第二次世界大戦が起こっていない。しかし、半世紀生きた人なら、イメージ訓練を多少すれば、もはや遠い過去ではないという感覚を得ることが可能だ。

200年前は1824年(明治元年は1868年)、50歳なら、自分が生きた期間を4回繰り返すだけで江戸なのか、と思うだろう。そして、たった50年の間にどれだけの有為転変、栄枯盛衰があったか、ループ感覚も身についたはずだ。100年前、200年前、人類はずっと同じように続いているだけだ、という否応なき、理解、把握ではない、もっと原初的な実感。

エジプトのピラミッドに「最近の若者は分からない」と書かれていた、そんな笑い話がある。いつの時代も一緒だ、という話だが、自分はこれを面白いと学生の頃から思わなかった。

永劫回帰は壊れるべきだと考えていた。

しかし、自分はループの欠片でしかないのか、と治療室で想っていた。

現実世界はどれくらい重要なのか

10代の頃、物語世界のなかに埋没するのが好きだった。そして、そのようなものを自ら作ることにも絶対的な関心があった。

学生を終える頃、自分の現実世界を豊かにしたいと思うようになった。理由を少し考えてみても分からないが、おそらく、小説内で一人の主役を立ててその主役が活動する世界観を構築し、長い時間それについて考えることを続けていたら、いや、自分のことを考えよう、と、シンプルに実感したのだろう。ちなみに、それ以前が豊かではなかったわけでは決してないが、この原理はあとで述べる。

現実は重要であり、虚構は無意味である。

しかし。

学生時代、ポストモダン文学を好んで読んでいた。特徴は、作品が虚構であることに自覚的でそのことを作中で利用するメタフィクション性にあり、ゆえに作品世界と現実世界、虚構と現実のあいだが揺らぐ。風間賢二という英米文学や幻想文学の研究家がいて、ポストモダン文学の流通にも積極的だった。そこで次のような文に出会った。

現実を離れて書物の世界に没入することを意味する読書行為(……)は法によって“罰せられぬ悪徳”なのだ

風間賢二『快楽読書倶楽部』

現実は重要であり、虚構への耽溺は悪徳である。

悪くない、と思った。

学生を終えて長らく生き、望んでいる経験と、自分にはとくに必要ないと思っている経験と、そのような尺度において、かつての理想からは程遠いが、相対的にはまあ充分すぎるほどの人生を生きている、とふいに思うようになった。望んでいる経験をさらに積み重ねていくのは良いだろう。したことのない体験をすれば何か意外性はあるかもしれない。逆に言えば、こういう状態であるのなら、残りの時間を悪徳に費やしても充分なのではないか。

この考え方は、独身者的だ。

親的な立場に何の快感も得られない者がいだくルート。

誰もが例外なく、酒を飲んだり美味しい食を得ることで人生に快感を得られるわけではないように、親的な立場の快感も万能ではない。誰もが例外なく異性愛者ではないし、誰もが例外なく NO MUSIC, NO LIFE ではない。

2018年の暮れ、これは〈持つ者〉の思考でしかないが、

〈現実世界などそこまで重要じゃない〉

2006年08月24日、文学海溝へ行く決意をした。

という価値観を、ひとつの対象領域として、イメージするようになった。

単純に、日本での生活は色々と楽しんだから海外で生活してみよう、みたいな感覚と同じなのかもしれない。ベンチャー企業でいえば、ピボット(方向転換 / 路線変更)だ。しかし、ヴァーチャルリアリティ(仮想現実)への参入といった方が近い。虚構への耽溺を選ぼうとしているのだから。これは、今のビジネス業界用語でいえばメタバースへのコネクトだ。

漫画家つげ義春の『無能の人』で描かれる俳人井上井月は、芭蕉の境地を越えんとし生き倒れた。江戸の徘徊師松尾芭蕉は、

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

松尾芭蕉

と詠んだ。

小説制作において洞窟潜水のダイバーを設定したことで、一切水に潜らないにも関わらず、ダイビング本や映像を見まくるようになった。自分は小説制作のための資料を読むのが好きだ。逆に言えば、何かにハマりたいと思ったとき、小説に描くことにすればそれだけでスイッチが入る。

先に〈小説内で一人の主役を立ててその主役が活動する世界観を構築し、長い時間それについて考えることを続けて〉いた学生時代が豊かではなかったわけではない、と述べたのは、このスタイルと関係している。先行資料を掘る癖がある以上、小説を作ることが実人生に反映されるから、自分にとって虚構を扱えば現実も動く原理がある。つまり、両輪性。

ポストモダン文学は、小説の〈神話性〉にも自覚的だ。

言語のもとで人類は想念から神話を生み、それら思考モデルを各々採用することで意識を保っている。重層的な神話群のなかを生きる作中人物の設定を通し、人類の構造を様々に問うのがポストモダン文学といえる。

いつしか現行の実人生を動かしつつも、虚構への耽溺という悪徳を積極的に生きてしまおう、そういう神話へのキマイラに自分を位置づけていた。

治療室で、生と死について考える。

現実世界からのメッセージにより、神話に亀裂が入った。

情報化社会の流儀

古代世界の人たちはいったい何を想って生きていたのだろう。

情報化社会の先進国で生きていると、なぜか人生が、生活費の手段を獲得したあとの退屈をいかに過ごすか、というゲームになってしまった。このゲームから降りるには親になって子に託す立場になるしかないという幻想があるが、子も育てば結局またゲームのフィールドに立たされる。

それで人は旅行にハマったり、習い事をしてみたり、恋愛であったり、ひたすら退屈を有意義へ転化させるプレイヤーになる。「人生なんてしょせん死ぬまでの暇つぶし」と言い切ったのはドラッグライターの青山正明だが、この価値観に20代、自分は否定的だった。だが、このライターの悪戦苦闘には励まされていた。多くの人にとっての退屈を有意義へ転化させる手段の多様性が、20代の自分にとっては生き延びるための実存的手段だった。

それくらい〈早々に人生から飛んでしまいたい〉衝動と苦闘していた。

だから、自分が多様に愛してきた文化の知識に対し、現実に役に立たないものばかりを好む人だ、と批評されると、腹が立った。人間には水と酸素が必要なように、自分にはカルチャーが必要だった。その批評は、水や酸素が現実に必要ない、という暴論に近しかったわけだ。

治療室のなかで、そういうことまで否定された気分になった。

人生観において色々なことが分からなくなってしまった、というのはそういうことだ。今の年齢の自分の体は20代の頃のように信用できるのか、そして打破する幻想をいだいていたが結局はループの欠片でしかないのか。虚構への耽溺という悪徳というファンタジックな形而上まで飛翔できるつもりでいた。しかし所詮、太陽というリアリズムの前で溶けるイカロスの羽だったのか。ありとあらゆる硝子細工を集めて作ってきた人工楽園は、かつての震災を経て見た焼け野原のように儚い。それは重々分かってはいたが、しかし、納得がいかないのだ。バカな。

アートと芸術の違い

アートは芸術とは違う。

正確にいえば、アートというのは技術それ自体のことを指すので、純粋なアート(ファインアート)と芸術は違う、というべきだろう。

ニューヨークでアートショップに入っても、アート作品はおろか美術品も置いていない。そこには商業作品、雑貨が並んでいるだけだ。

芸術が何を指すのかは今でもよく分かっていないが、この2つの間の相違点は分かる。ファインアートは、芸術と違い、ケとハレ、や、オフとオン、といった区別が関係ない、ということだ。それは〈アートは生きることそのものである〉と拡張して話せる原理になる。ならば、内臓のダメージやその暴走について考えることも当然アートの領域にあるといえる。

一方で庶民的なアートという領域がある。

これは、非社会性をシンボル化したもの、と思われる。先日庶民的なアートの場で、柱になにかをただ巻きつけている様子を見た。これに何か意味があるのかは分からない。しかし、アートの行為なのだろう。社会的に役立つ行為ではないが、全行動と社会性とのあいだにある差分が表現されると、人はそれをアートだと思いやすい。ここから、アートとは役に立たないもの、という定義が生まれるが、これは庶民的なアートであり、純粋なアート(ファインアート)とは違う。

かつて、アートとは心の中で生じたスパークそのものだ、と結論した。スパークを応用することがデザインという技術だが、そのスパークそのものに限りなく近い純粋性を持ったものがファインアートである、と。

そして、ファインアートについて、社会を超えた人類において、役に立つものでなければならない、と自分は考えている。アートが技術のことを指す以上、ファインアートは純粋化された技術のことを指す。例えば、使うにあたってカタログ化された様々な技術の1つをどこまでも削っていって結晶にまで達したものがファインアートで、遡行させれば(つまり逆行させれば)様々な人が使うにあたってカタログ化された様々な技術に戻すことができ、更には、未知の技術を呼び起こすこともできる。

庶民的なアートにしても、それは役に立たないのではない。それは、ファインアートのレプリカであり、途中段階だからもっと結晶化できる状態だ、ということだ。この庶民的なアートは、自分がかつて多様に愛してきた文化への知識と近しい位置にある。文化への知識が生き延びるための実存的手段だったというのは〈アートは生きることそのものである〉という道筋への入り口だったのだ。これは形而上へ翔ぶことであり、学生の頃に自分は〈早々に人生から飛んでしまいたい〉衝動があったが、飛ぶから翔ぶへ、願いを反転させたともいえる。人生から飛ぶ、つまり死だが、アートについて考えることで、翔ぶ、生を選択した。

内臓のダメージやその暴走、つまり、生命、ということだ。

どれくらい命について自ら扱えるのか、どれくらい医療機関に時を費やすのか、この2つは分離していない。まとめてアートの領域にある。

片側から結晶の領域を見つめることはできない。

このことを、言語を用いた列(文字列)に翻訳したとき、文学となる。

悪徳の文字列

ようやく本題に辿り着いたが、2006年08月24日、文学海溝へ行く決意をした。文学海溝とは、難易度の高い本のことを指す。それは、学生時代でもないのに〈暇潰しとは違う視点で小説を読むことは現在でも可能か?〉という思いから始まった。いつしか自分にとって小説が小説を作るための資料でしかなくなり純粋な読書ができなくなってしまっていて、ポストモダン小説に至っては、その対象についての評論を読むための予習テキストでしかなくなっていた。

この観点をずらすため、神秘性を重視した。

文学海溝へゆく読書を、潜水読書、と名づけた。祖父の書斎への記憶と結びついている。並んでいる難しそうな背表紙に幼少の自分は神秘を見ていた。そこからの連想で、実際に目を通してみても参入できない本に対する神秘へ向けて潜り泳いでいく読書を目指した。

分かる本というのは、人生ですでに多く経験している事柄による本だ。速読に向いている。そして、知らないことを教えてくれる本というのは、自分の人生ですでに多く〈文法〉を経験している本だ。

分からない本というのは事前知識を前提としていたり、文法そのものが特異な本だ。例えば、文系の人がいきなり数列の並んだ数学や物理学の専門書を読み通すことはできない。もしくは、ヌーヴォーロマンと呼ばれた、筋どころか人物さえ不明瞭な描かれ方をし、文法さえも崩された小説群は、比較的わかりやすい一編を頼りにしてその作家の呼吸、つまり文法をなんとなく掴むことに成功すれば、意外と読みやすくなったりする。

潜水読書を自分はケーブダイバー(洞窟潜水するダイバー)にかつて喩えてスタイルを作った。神秘との合一のための読書、これは悪徳の文字列に人生の多くの時間を費やす奇癖であり、この行為の補強として、千年思想を設定した。持ち時間が永遠であるという幻想に接続しないと、もっと実利的なことをしなければ、と社会性に掠めとられてしまう。小説の主役の人生などに時間を費やさず、自分のことを考えよう、という、かつての状況に陥る。この状況に陥るとフリーズする。奇癖に浸りたい、しかし、実利が大事だ、というアンビバレント(二律背反)は、欲に流れる、という結果を生む。理想を語り何もせず酒などの中毒装置に溺れるなど非理想的だ。

仮に平均寿命が1000年になったとしても、とも考えた。平均寿命が80年そこそこで尽きてしまう、そんな(80年というその場=)その場しのぎの思想など、取るに足らないと看做した。自分が生きている間は大丈夫だ、という考え自体は良いが、その考えが思想自体に含まれてくることは美しくない。

人類のことを考え合一したいという宗教的態度だが、それが単なる奇癖を目的としていて、尚且つこれを理論武装するなど、悪徳以外の何ものでもない。または、こう言い換えても良い。老後の趣味の盆栽のような、隠居者の密かな愉しみと呼べばいい程度のことを、崇高な態度だと看做す理論武装は相当悪徳だ、と。しかし、これも先のアートの話と通ずる。

何の役にも立たない非社会性というのは道のりの入り口であり、むしろ幻影であり、もはやどのような入り口であっても構わない、生きることすべて、突き詰めれば結晶化する領域が現れる。

文字列界の実存的意味

旅をしていてふと思ったことがある。

自分は現場主義で、自分の目で見ていないものを語るのはナンセンスだと基本は思っているが、それでは通用しない領域がある。結論から先に言えば、言葉でしか訪ねられない場所がある。

なんとなく盛り上がった土があり、説明を読むと、古墳だという。しかし、どれだけ想像を逞しくしてみても、こんもりと盛り上がった土にしか見えない。聞き込みをしようにも、まさか古墳時代の当事者と出会えるわけがない。もはや研究者の言葉を読むしかない。

盛り上がった土があればまだいい。かつて、この辺りに古墳がありました。見渡せば、ただの新興住宅地だ。最低限の案内板さえない。この痕跡が一切ない場で、かつてと出会うには、言葉を読む以外に手立てがない。

_underline 「無形跡行 -中村遊郭-」

これはトップに掲げた画像だが、無形跡ゆえ、写真を撮った旅行記が不可能なら、文字で描くしかないことをテーマにした図像随筆。

ここでは、すでに取り壊されてしまった中村遊郭を探訪先にしている。

が、しかし。

そもそも小説は、無の原理の上に存在している。

小説の場合、ただ一つしかないその小説を読まなければ、現地を垣間見ることはできない。メディアミックスは解説と近似にある(ストリートビューで中村遊郭跡に出向くことにも似ている)。それは、近しいが違う。

小説の中にしかない世界へ出向くのは、逃避に尽きるのだろうか。

人工楽園は、儚い。

今の年齢の、自分の体は、どこまで20代の頃のように信用できるのだろう、と実感した。仮に、信用できるはずだ、そして結果、実際に信用した通りだった、という未来を望む。当たり前だ。

だが、成し得たものより、成し得なかったものについて考えることの方に意味がある。成し得たことというのは、結局は未来へのエナジー(人脈や自信など)に還元されていくように思う。それ以上思考する要素はない。立ち止まって思考などするより、その未来に取り組んだ方が有益だ。いかに成し得るかという題材も、ここでは意味がない。成功の秘訣みたいなものは文学ではない、実用書だ。実用書が文学になった世界は、世界の終わりだと思うし、その類は、正直書物の世界から電子書籍へ追い出したいと思っている。

信用できるはずだ、そして結果、実際に信用した通りだった、という未来を望んでいるのだが、しかし、残念なことだが今の世界線は望んでいなかった、という人生であるときの、心の防衛線は思考する意味があるように思う。

自分ごとでいえば、もっと良き家系の現在であってほしかった。しかし、幻想に逃げても現実は変わらないので、向き合うわけだが、その、いわば恐怖との、向き合い方のマインドについて。

人工楽園は、儚い。と述べたが、儚さは文学である。

実際は、様々な人たちによって積み重ねられてきた制度や、それを支える人たち、身近な人たちに助けられながら生きている。救急で運ばれること、その車や道路、その先の治療室、すべて、その中にある。先進国に生き、医療など制度も選択できる身分にあり、儚い、とか、10代でもあるまいし、お笑い種なのだろうか。

しかし、どのような領域にあっても出会う時は出会うのが、実存という命題だ。多くを持つ側のはずの人間が、突如すべてを棄ててしまったりするほど冷ややかな領域。魔がさす、という言葉がある。悪魔のようなファンタジーは現世界のれっきとした寓話であり、魔には、階級が歴然とある。

ふいの事故、事件について、20代の頃、よく考えていた。

相対的にはまあ充分すぎるほどの人生を生きている、とふいに思うようになった、と先に記した。しかし、あらゆる認識は幻想であり、なにかの弾みで簡単に壊れる。

人々で助け合いながら生きているから社会なのだが、当然、人はつねに独りだ。だからこそ繋がり合うのだが、社会が在ること自体が、人がつねに独りであることの証明ともいえる。

所詮ループの欠片でしかなかったのか。そうではなく、所詮ループの欠片でしかなかったから、ありもしない永遠という形而上を(実際に不老不死になろうと技術革新を追いかけるとかではなくて)仮構するのであり、恐怖を飲み込んで不敵であるからこそ、文学なのだと考える。

文学は、虚学だ。

極端な話、明日正午、太陽が爆発することが確定し、間違いなくその巻き添えを食らい消滅することが確定した地球上で、それでも魂を救うのは、愛でなければ、虚以外ありえない。愛がある。それは、持つ者か持たざる者かでいえば、前者、成し得た側の領域であるから、ここで思考する余地はない。

〈虚〉の特異点。

いつからだろう、自分は長らく〈アートは生きることそのものである〉という考えを失っていた。正確にいえば、オウムのように記憶していて、自身と接続していない、批評言語でそのフレーズを使う程度の情報にしていた。例えばヴィーガンレストランに行けば、背景にアートがある、どこか自分と形が似ている、と、他人事のように思っていた。自分だって? 一体どこの自分だ?〈アートは生きることそのものである〉というわりには、生活空間をおざなりにし、ただただ、黒暗の川を流れていた。

ならば、神話に亀裂が入った、のではない。自身が作った奇妙な神話のレプリカに落ち込んでいた、そこに、現実世界からのメッセージのごとく亀裂が入り、かつて作った神話が、裂け目から垣間見え、自身の複数の影が脅かされたのだ。この裂け目から手が届かず見えるだけの真の神話を眺める人工楽園のレプリカで、亀裂の向こうを眺めながら思考を尽くし、生を探るのも、最上ではないが、悪くない、のか。

実と虚はメビウスの輪のように分かち難く、たかが虚構なのではなく、現実を生きるための仕組み(システム)に相当するのが虚構といえる。この虚構のアップデートの必要性を定期的にチェックするメタシステムの重要性は大企業の存続に直接関わる責務だが、例えば10年代、あまりにも法律の内容が古いため今の時代の感覚と一致していないと多くの声が上がった風営法におけるダンス規制の見直しに表れているように、国家であっても同じだ。

この形骸化は、個人であっても同じだ。

仕組みを軸に成される現実での運用は、良いときほど仕組みに関心が向かなくなり、そして、悪くなっても仕組みのことを忘れたままでいる。

体は資本だ、という常套句がある。体と金は似ている。貯蓄すれば労働をやめても当分生きていけるが、貯金は減っていく。同じく、体は運動していなくとも当分生きていけるが、蓄積されていた体力はどんどん減っていく。失うと危機に陥るが、金と違い、体の方は不労所得の構想をイメージし辛い。

フィジカル面でもマインド面でも虚というシステムの上で個人はルーティン化し〈別の事柄について思考を巡らせる〉余裕を確保できるベストな状態を作りだすことに成功し、生が運用されている。どうだろう。このような実用書的な解説になると、現実の生活と直接繋がっているので腑に落ちやすいだろうか。だが、それこそが決定的な罠なのだ。

先に、文学は虚学だ、と述べた。

虚学が実学となったとき、虚学はぱらぱらぱらぱらと滅んでいく。メビウスの輪が壊れる。いつしか、自分はそのような状況に陥っていた。

メビウスの輪は現実の世界にも存在している、だからそのようなファンタジーは無意味である、という原理破壊だ。

鏡や映像を使ったトリックを除き、確かな一枚のコインの裏と表を同時に観賞することは決してできないだろう。この世界は粒子であり波である、という、相反する状態の重ね合わせが真理として強い方向の認識を自分は信用している。

同じく、虚学と実学は存在する次元が違う。片側が片側を組み込んだ統一をすることは決してできない。

はずなのだ。

なのに、実学という現実感覚の圧倒性はあまりにも凄まじく、フィジカルのみならずマインドの思考領域にまで侵食する。

ここに、生涯を分岐させる、特異点がある。

医学が大衆のために築きあげられてきたように、インフラ労働者が大衆のために汗水流すように、それは結果であって当事者の目的は生活の糧でしかないかもしれないが、同様、大衆のために成される専門分野だ。

メビウスの輪の崩壊を、文学は阻止しなければならない。

_underline, 2024. 7 (末尾は9月に追加)

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