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「普通」を愛おしくする魔法


今、故郷に向かうバスの中でこの文章を書いています。バスに乗った時は流れる風景を眺めながら考え事をするのがすきです。

高速に乗ったバスからは東京の暮らしを上から眺めつつ、下から見上げたときは小さい四角に切り取られてしまう空も広く見渡すことができます。ちょっと天界に近づいた気持ちになって、他人も自分も俯瞰して見えるのです。トンネルに入ってしまったので、文字を打ち込むことにしました。

先日、「ボクたちは大人になれなかった」の先行試写会に行きました。普通な男の、普通な人生を描いた、普通な話でした。ここまで普通を連呼すると、普通という言葉がゲシュタルト崩壊しそうになります。

私はこの映画の原作、燃え殻さんの同タイトルの小説がとてもすきです。小説では映画よりも主人公の感情、それに伴う情景描写にフォーカスされた表現がされていて、起きた出来事は映画と変わりありませんが、劇的な人生のように感じました。

こう言ってしまうと「小説の方がすきだ」と言っているように聞こえるかもしれませんが、私は小説を読んで、映画を観たからこそ、このふたつの作品から「普通」の愛おしさに気づくことができた気がします。

「普通」を「劇的」に変化させるもの、それは「感情」だということです。

そして、あるひとつの物事に対して人々が抱く感情は当然千差満別です。

つまり、感情を伴った「普通の人生」は、普通ではなくなるのです。

ところで、話は変わりますが、少し前、私に「あなたは普通じゃない」と言う人がいました。私には私のどこが普通じゃないのか、わかりませんでした。

その人は「自分に正直に生きることができて羨ましい」とも言いました。

私はそう言われるまで、自分が自分に正直に生きているということにすら気がつきませんでした。というよりむしろ、私自身そういう人間に憧れを抱いてすらいました。誰かの目を恐れずに、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣き、言いたいことを言い、やりたいことをやり、なりたい自分になろうとすることを厭わない人。

だから、もしその人の目に私が「自分に正直に生きる、普通でない人」だと映っていたのだとしたら、私はその人の前では自分に素直でいることが出来ていた、ということです。

それはその人が私を「普通」という枠にはめこまずに見てくれていたからだと考えます。


今の生活が「普通でつまらない日常」だと思ったのならば、普通の毎日を過ごす中で、少しだけ自分の感情に目を向けてみることにします。きっと自分を「普通」の枠にはめ込んでしまっているのは自分自身なのです。

何をしている時が楽しくて、何について悲しさを感じるのか。どこにいる時の自分が好きで、いつの自分が嫌いだったのか。

自分の感情を真っ直ぐ認めること。それができたとき、「普通」はドラマになって動き出すのでしょう。

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