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重苦学生の救い方

〇〇学生シリーズ最終回です。ぜひ一つ目二つ目を合わせて読んでいただければ幸いです。続きになっております。

*今回の写真は保健室のポールを掴む私の手です。なんで撮ったかはわからない*


担任の先生に診断書を渡し、フラフラなまま保健室に行った。保健室の先生にも診断書のコピーを渡し、少しベットで休ませてもらうことになった。今でも忘れない、一番左のベットでしばらくお世話になった。午前中は動悸の気持ち悪さと睡魔が入り混じり、寝たりおきたりを繰り返した。午後になると熱っぽくなり、末端が焼けるように暑くなった。靴下を脱いでベットのポールに当てたり、握ったりした。(猿か)その写真である。

常に病んでいた。病み垢にも「この場所は体調が悪い人が休む場所なんだ。私みたいなクラスが怖いから逃げてきました、やることないから寝てます。みたいな人はいちゃいけないんだ。全部気の持ちようなんだ、死ねばいい。」とかかいていた。

ある日、母親と担任の先生、私、で急遽三者面談をすることになった。母親は、高校を辞めることを視野に入れている、と先生に伝えていた。大学には行きたくないそうです。と。

次の日、また保健室で寝ていた私のところに担任の先生が会いにきてくれた。先生はゴミみたいに寝ていた私の隣に腰をかけて話を聞くと言ってくれた。

「ちょっと薬が効きすぎちゃって、でも慣れるみたいなのでもう少しだけここに居させてください。そのあとはなんとかします。本当にご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ございません。」

涙が鼻のあたりまで来て、先生の前で泣くなんて小学生の時に怒られた時以来で、息がしづらくなって、もうほんと馬鹿だなって思って。。

だって、私は学校で壮絶ないじめのあったわけでもないんです。寧ろ優しい友達にも恵まれて居て、虐待にあっているわけでもない、DVにあってるわけでもない、全部自分の中の問題。自分の考え方が自分を苦しめてるから。HSPなんかどうでもいいよ、何が繊細な人間だよ。もっといいところに繊細さが働けよ、先生の気持ちを察するとか、親の苦労を察するとか、もっとうまくやれよ。もう死ねよ。

そんなことを同時に考えていた。もう涙が止まらなくなって来ちゃって、わけわからなくなってしまった。担任の先生は一つぬいぐるみを持って来てくれた。これ抱っこしてみたら楽になるかもよと、

・・へ?

最初は他愛もない話をした。元気だった頃にやっていた委員会の仕事の話。委員会担当の先生がよく頑張ってくれて助かったよと言っていたよ、って、だから無理して来なくとも大丈夫だと。体育も心配しなくていいよ、出席日数は足りているから、休んでも大丈夫だよ。しばらくはやすみなさいと、全然私を責めなかった。

先生は次の日も来た。授業の合間を縫って、私のために時間を割いて面倒を見てくれた。

先生はその次の日も来た。今度は先生のお子さんの写真を見せてくれた。むちゃくちゃ可愛かった。動画も見せてくれた、先生はお父さんだった。まだこんな小さい子がいるのに、学校までこんな面倒な私の世話なんかしなくちゃいけなくて、大変だなと思った。

先生は私に、「指定校推薦取れるけど、大学に行きたくはないか。」と聞いてくれた。耳を疑った。高校すらまともに通ってない私に、進学の希望なんかあるのかと。指定校推薦とは高校3年間の評定平均で条件に満たしていれば、学校からの推薦という形で大学に入学できるという制度だ。評定平均は主に中間テスト、期末テストの点数で決まる。もともと私は、指定校推薦で進学を目指していた。行きたい大学どころか、学部すらも決まっていなかったが、三年生になる頃には決まっているだろう、その時に少しでも希望があるようにと一年からちょっと頑張っていた。頭が特別良くはなかったけれど、どこかしらの指定校は必ず取れるくらいのレベルをなんとか保っていた。

高校1、2年の間はむちゃくちゃ頑張っていたが、3年の前期中間テスト中に軽くパニックになり、テストの点は散々だった。こんな感じで病み、項垂れているこの時期にも、もう期末テストは刻々と近づいていた。

指定校推薦。もし大学に行ったら、私は何か変わることができるのだろうか。一度は諦めた進学、でも、少しでも望みがあるのならと思うようになった。

次の日先生は、相談室を解放し母親と担任の先生、スクールカウンセラー、私、と四者面談の時間を設けてくれた。指定校推薦で廃人つぐむを大学に行かせようの会だと思う。担任の先生は指定校推薦の冊子にたくさん付箋をつけて持って来てくださった。私は高校3年間、総合的な学習の時間で哲学を専攻していた。哲学研究では主に精神病理の本を読んでいた。(自分がHSPだったことを克服しようと思って入ったのだが、顧問の先生に勧められてかなり専門的な本を読むようになっていた)なので、哲学部、文学部、心理学部のある大学を勧めてもらった。色々考えたが、このような病気になってしまった自分をコントロールできるようになりたいと思い、心理学部に決めた。

まずは短期大学。四年も通える自信がなかった私は二年で終わる短大を探した。先生が進めてくれたのは都内の女子大学の心理学部だった。高校三年になって初めてオープンキャンパスに行った。女子大学の先生に話を聞いた。学校で今までやっていた研究の話、こういうのに興味があると話たら、短大では専門的な勉強はやっても就職で心理職につくのは難しい。まず、四年制大学に編入してそのあと大学院に行かなければいけないと教わった。そして、大学の先生はこうおっしゃってくれた。「やりたい勉強がここまで明確になっているなら、もっと専門的なことを教えてくれる教授がいるところにしたほうがいい。頑張ってね。」

せっかく大学に行けるんだったら、しっかり勉強しなくちゃ。自分の興味のある分野で頑張りたい。担任の先生に恩返ししたいと思った。

指定校推薦を取ることになった私は、当たり前だけれど高校を中退することを辞退する訳だから、期末テストを受けなければならない。でもあれ以来クラスにいけていない私はテストをクラスで受けることは不可能だった。担任の先生はたくさんの教科の先生にお願いをしてくれて、私は別室で受けられる許可をいただいた。

また、出席日数もまずかった私のために2時間目登校、4時間目下校なんていう社長出勤が許された。授業も出られるものだけでて、怖かった音楽(病み学生の作り方に書いた理由で)などは欠席した。合唱祭も欠席した。

担任の先生が全部計算してくれて、この授業はあと一回授業出たら大丈夫、とかこの小テストは本当は明日までだけど、テスト終わるまでに受けにいけばいい、など他の教科の先生に交渉していただいた。

もう何もかも、先生が助けてくれた。

しかし、病状は一向に良くならなかった。薬を何回か変え、食事の取り方を気をつけたりしてなんとか持ち直そうとしていた。

期末テスト当日、もちろん授業なんか全然出てなかったし、勉強もしていなかったからひどい点数だったけれど、なんとか指定校推薦を受けられる権利は手に入れた。

夏休みが終わり、指定校推薦の紙に希望の大学を書いた。

第一希望の大学は何度も悩んだ。私の学力じゃ絶対行けない大学を書いて恥を書くか、オープンキャンパスでよかったと思った大学をかくか・・

まぁでも、第一希望が通らなかったら必然的に第二希望の大学に進学することになるので、とりあえず書きなさいと母親に言われ書いた。

第一希望の大学は、哲学研究の先生に進められていた大学だった。実験施設が完備されていて、心理学を学ぶならここの大学はとてもいい環境だと思うよと言っていた大学。

そして私は、指定校推薦が通り、第一志望の大学に進学することが決まった。

電話で決まったことを聞いた母親は涙を流して、その場でペコペコと頭を下げていた。母親から決まったと聞いても信じられず、何かの間違えなんじゃないかなと次の日学校に行くまで思っていた。

担任の先生から大学の資料をもらって、わああと涙が溢れてきた。間違えじゃなかった。先生のおかげで入学できます。本当にありがとうございました。と何度も何度も頭を下げた。




もしあの時、相談室に駆け込まなかったら、相談センターに電話をしていなかったら、もしあの時、病院に行ってなかったら、学校にいかなかったら、もしあの時、進学を諦めていたら、第一志望の大学を書かなかったら、と思う。


ここまで読んでくれる方はもういないかもしれないが、一つだけいまの私の目標を最後に書きたいと思います。

こんなメンヘラでやばいやつがカウンセラーになれるとは思いません。心理学の研究者になれるとも思いません。ですが、こんな病み方をしたので、ちょっとだけかもしれませんが、悩んでいる人の気持ちを少しは感じることはできると思います。自分の体験談がなんの役にも立たないかもしれませんが、誰かの心に寄り添えるような、優しい言葉をかけられるような、そんな人になりたいと思います。


大学でたくさん勉強し、良い人間になれるように努力いたします。


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つぐむ。(19)
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